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【帝都復興祭】
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遷都はせず
特にこだわったのは「遷都をしない」という点でした。
江戸幕府がなくなってまだ半世紀ほどでしたし、後藤本人を含めてあちこちの藩士出身の役人や軍人は多くいました。
もちろん血筋として徳川家も残っていますから、そこで徳川家の象徴だった江戸城(皇居)を空けてしまうと、関係者が寄り集まって何かことを起こすとも限りません。
また、新都整備+震災処理をするとなると、さらに資金が必要になるという理由もあったでしょう。
ですので、後藤はあくまで東京を災害に強い街にするべく、さまざまな工夫を凝らしました。
上述の大通りを始めとした道路の建設、区画整理や新しい橋の建設はもちろん、公園の新設や小学校の耐震及び耐火工事によって避難所を確保することなど、現在もその多くが受け継がれています。
地主の反発もあり、決して順風満帆とは行かなかったようですけども。
復興を「お祝い」する
復興資金については、世界各国からの支援も大きな助力となりました。
第一次世界大戦で日本軍の活躍を見ていたアメリカ。
同盟は失効したものの同じく第一次大戦で協力させた手前無視できなかった(っぽい)イギリス。
お隣中国(中華民国)からはラストエンペラー・溥儀。
各国から膨大な支援金その他諸々が送られています。もちろんその他の国も惜しみなく援助をしてくれました。
こうした内外の協力の末にできたものでしたから、無事、復興が終わった暁には盛大に祝うのが筋です。
昭和天皇ご臨席の式典、ダンスパーティーや演奏会、映画上映など文化的なものはもちろんのこと、外国の方も参加してのスポーツ大会も行われ、「帝都復活」を国内外に示すことになりました。
記念日を作るかどうかはまた別の話として、東日本大震災についても、いつか全ての問題が整理できた日には何らかの催しがあっても良いかもしれませんね。
一日も早くそうなることを祈っております。
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長月 七紀・記
【参考】
第56回NSRI都市・環境フォーラム(→link)
国史大辞典
関東大震災/wikipedia
日本トップリーグ連携機構(→link)