片倉重長(重綱)

片倉重長(重綱)/wikipediaより引用

真田家 伊達家

幸村の娘・阿梅を救った片倉重長にシビれる!大坂の陣100年後に仙台真田氏が復活

仙台真田氏」をご存知ですか。

大坂冬の陣で大活躍した真田信繁(真田幸村)が、己の死の直前、密かに脱出させた子供達により、東北・仙台で興された家――。

それが仙台真田氏です。

いかにも隆慶一郎や山田風太郎の小説と思われそうですが、さにあらず。史実であります。

真田氏と言えば、幸村のお兄さんで徳川方についた信幸(真田信之)の信濃松代藩が有名でしょう。

それと区別するため、幸村の子孫は居住地の藩名をとって仙台真田氏と呼ばれる訳です。

では、幸村はいかにして仙台で真田の血を繋いだのか?

万治2年(1659年)3月25日は片倉重長(重綱)の命日。

今回は、大坂夏の陣の最中に死を覚悟した幸村が、大坂城から幼い我が子達を脱出させて片倉重長(重綱)に託し、阿梅の血筋により仙台真田氏を興すまでの経緯を振り返ってみたいと思います。

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時は慶長20年(1615)の5月、場所は大坂城外の道明寺。

そう、大坂夏の陣です。

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豊臣秀吉が建設し、冬の陣においては敵にも味方にも天下の名城と讃えられた大坂城が、防衛の要であった二の丸、三の丸の壕を埋め立てられ裸城同然の無残な姿を晒しています。

日本一の堅城と言われた大坂城も、こうなっては野戦にて雌雄を決するのみ。

豊臣方10万、徳川方20万とも言われる日本史上例を見ない大規模な戦が、再び始まろうとしていました。

戦況が一気に激しくなったのは5月5日。

大坂方でその人ありと聞こえた勇将・後藤又兵衛基次が手勢を率いて猛進、激しい戦いの末に徳川方の重要拠点であった小松山を占拠した事から、夏の陣最大の激戦【道明寺の戦い】が始まります。

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勝ちの決まった戦に徳川への義理で出陣してきた諸大名と違い、この後藤又兵衛をはじめとした大坂方の諸将にとって、この戦はシリアスそのもの。

豊臣恩顧でありながら徳川に付いた裏切者達への復讐のチャンスであり、少ない兵で大軍に斬り込み世に名を残す絶好の、そして最後の機会でもありました。

 

混乱だらけの豊臣方で冷静だった幸村

徳川方は譜代の家臣を従える大名揃い。

対して豊臣方は、数で劣る上にろくに連携も取れない浪人ばかり。

さらに指揮を執るのは戦争経験のない淀の方と豊臣秀頼とあってはもはや敗色は濃厚であり、この上は自らの命を賭けて一か八かの勝負に出るよりないと、それぞれが悲壮な決意を固めたのでしょう、

もともと豊臣方には、味方と連携を取ろうとする気持ちが薄かったようです。

もう少し彼らに協力する気持ちがあればと惜しく思わざるを得ませんが、しかし、この頃の大坂方上層部のダメっぷりを考えると、思わず絶望して敵に突っ込みたくなる気持ちも分かります、うん。

このような混乱を極める大坂方にあって、一人冷静に戦況を分析し、死を覚悟しながらも決して勝利を諦めない男がいました。

「日本一の兵」こと真田幸村です。

彼は慎重であっても臆病ではなく、勇猛であっても蛮勇を振るわず。

寡兵で大軍の猛攻に耐え、徳川本陣に向けて壮絶な突撃を敢行すること三度。

終いには、眼前の松平忠直隊を二つに裂き、旗本勢も蹴散らして敵本陣にまで到達しました。

yukimura幸村大坂の陣1

大将首である家康こそ討ち取ることはできなかった。

されど、並の人間には到底達することのできない武人の境地。

彼の日本一の兵たる所以は、その知勇もさることながら、どんな切羽詰まった状況にあっても決して目的を諦めない、冷静沈着な人格そのものにあると言えるでしょう。

 

大坂城に残る子供たちだけが

そんな知勇兼備の将幸村にも一つだけ気懸かりな事がありました。

大坂城内に置いてある子供達の事です。

物心ついた時にはすでに九度山に幽閉され、生活が困窮していく中、ただ耐えるより他に選択肢のない人生を送ってきた幼い子供たち。

このまま大坂城が落城すれば、父の敗北に連座して死罪となるか、良くても僧侶にされた上で再びどこかの寺に幽閉され、一生を終えるしかありません。

幸村も人の子の親、胸が痛んだ事でしょう。

長男で弱冠14歳の真田大助幸昌は、武家の嫡男として生まれた定めに従い、父と共にここで討ち死にして果てる事が決まっています。

しかし、他のきょうだい達はなんとか生き延びて貰いたい。

そして、できることならば、いつの日か真田の名を復興してもらいたい。

自ら亡き後、苛烈を極めるであろう豊臣の残党狩りをかい潜り、なんとか子供達を安全な所へ逃がす方策がないものか。

思案する幸村の眼前に、運命の戦場――後藤又兵衛が一人奮戦する小松山が見えてきたのでした。

 

「鬼小十郎」の異名を戴いた勇士

一方の徳川方――。

この小松山の激戦の中で、猛将・後藤又兵衛と激突したのはどこの家中の者なのか。

徳川方の大名、特に徳川の譜代ではない外様大名にとって「大坂夏の陣」とは、徳川と豊臣という他所の家同士の戦であります。

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むろん「うちは関係ないのでパス」とはとても言えない。

そんな状況で戦場へ出て来たので、「よーし、頑張って武名を天下に鳴り響かせるぞ!」などと考える人は少なかったようです。

幕府を納得させるだけの働きをするのは当然ですが、働きすぎて変に消耗せぬよう、功を焦る部下達を抑えるのに必死になっている家も見受けられます。

このへんの考え方がやはり、江戸時代の大名というよりは戦国末期の百戦錬磨な武将ですね。

そんな訳で、激戦の末、後藤又兵衛を討ち取った部隊の指揮官は、徳川家や他の大名家からは

「すごい武勇だね」

「キミのような家臣がウチにもいればなあ」

「超カッコいい~」

なんて褒められまくって一躍時の人となるのですが、後でお家の人からはこっぴどく叱られます。

その若者の名前は片倉重長(片倉小十郎重綱)でした。

絵・小久ヒロ

伊達政宗率いる伊達家・片倉隊の大将。

政宗の傅役で兄や師のような存在でもあった名参謀・片倉小十郎景綱の嫡男であり「二代目小十郎」として夏の陣で大活躍しました。

家康からはその武勇を讃えられ「鬼小十郎」の異名を戴いた程の勇士です。

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