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【片倉重長と阿梅】
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追撃しなかった政宗の義にかけた幸村
一方、丘陵に陣取っていた幸村も、他方面に展開していた大坂方の敗走が伝えられると撤退を始めます。
もちろん政宗が追わなくとも、他の徳川方の軍勢は追ってきます。
一説によると、このとき真田隊を追わなかった政宗への恩義と、又兵衛を討ち取り、自分を相手に一歩も退かぬ戦いぶりを見せた片倉重長の武勇に惚れ込み、幸村は大坂城内にいまだ留め置かれたままの愛娘「阿梅」姫を、敵である重綱に預けようと決めたと言われています。
阿梅はこの時12歳。
当時の感覚でも、若いというよりはまだ幼いと言っていい程の子供でした。
しかし、子供であろうが戦国の世の習いは平等に彼女の身にも降り懸かります。
女子の多い幸村の遺児達の中でも「容色群を抜く」「端麗高雅、容顔美麗」などと表現される程の美少女だった彼女。
九度山で失意の内に亡くなった祖父の真田昌幸や徳川本陣への突撃を最後に壮絶な最期を遂げる父・真田幸村だけでなく、秀頼君の自害に伴い自らも自刃して果てる兄・真田幸昌など。
真田昌幸は誰になぜ「表裏比興」と呼ばれたのか 65年の生涯で何を成し遂げた?
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死んでいく家族達の期待を一身に背負い、燃え落ちる大坂城を脱出して敵将の妻となり、幸村の血筋を後世に残すことを期待されたのです。
彼女は無事に大坂城を脱出し、敵のイケメン武将・片倉重長の陣地へ駆け込む事ができるのでしょうか。
慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣――。
死を覚悟した「日本一の兵」真田幸村は、落城寸前の大阪城から愛娘で超絶美少女と名高い阿梅姫を脱出させようと決心しました。
眼下に広がるは徳川20万の軍勢。
それは5月6日の夕刻――大坂城が落城する十数時間前のことでした。
阿梅姫 わずかな供を連れて大坂城を脱出
死闘の痕も生々しい戦場を、そろりそろりと進む女駕籠がありました。
真田幸村の愛娘・阿梅姫がわずかな供を連れて大坂城を脱出したのです。
今や敗軍の将の娘となろうとしている彼女の武器は「容貌群を抜く」と言われたその美貌と、清和天皇から綿々と続く貴い血筋、そして真田の娘としての矜持のみ。
真田の血筋を絶やさぬため、そしていつの日か家名を復興するため。
今から彼女は真田の尖兵となって伊達政宗麾下の武将に対面して保護を求め、彼らの協力を取り付けねばなりません。
彼らの庇護を受けることができれば、彼女の縁者もまた、伊達家を頼って仙台に落ち延びることができるからです。
阿梅は父・幸村とその正室・大谷吉継の娘を母とした7人兄弟の長女でした。
父と兄が討ち死にすれば、明日からは彼女が姉弟の中の一番の年長者であり、幼い弟妹は彼女が守らなくてはなりません。
特に、未だ4つの大八は、幸村と母の血を継ぐ唯一の男子です。何に替えても、彼女は弟を守らなくてはなりませんでした。
敗軍の将の娘が、敵に嫁すことで家族を守る。
12歳の女の子が負うには余りにも重い責任と多くの命が、彼女の双肩に掛かっていました。
片倉重綱の前に現れた可憐な少女・阿梅姫
一方、今日の快勝に湧く伊達家・片倉隊の陣地では、明日に備えて具足や武器の手入れをする者、今日の戦果を報告する者、負傷者の看病に当たる者などで、陣中はごった返していました。
しかし、どの顔も表情は晴れやかで活気に満ちています。
それもそのはず、片倉隊は今日の戦で数々の武功を立て、彼らの主である片倉重長は、大将自ら四つの首級を挙げる働きを遂げたのです。
主君伊達政宗公はもとより東軍の総大将である徳川家康公からも直々に褒賞と感状を頂戴するほどの大功でした。
明日の戦でも大いに戦って戦果を挙げてやるぞ――そんな雰囲気が陣中に満ちていました。
そんな時です。
片倉隊の陣の前に一丁の女駕籠が到着します。
駕籠の側には東軍でも大坂方との交渉に当たっていた武士が付き従っており、彼らから差し出された書状を見て、重長は目を見張りました。
書状の差出人は今日の戦闘で激しく干戈を交えた真田幸村その人。
内容は、重長の戦場での活躍を見込んで、娘の阿梅姫を預けたいとするものでした。
「幸村一人の娘あり、その愛いわゆる掌上の珠にひとし、しかるに落城も近きにあり、瓦となりて砕けしむるに忍びず。
幸村思いらく、城上より天下諸大名の陣屋を見渡すに、托するに足るるもの一人公(重綱)あるのみ。
願わくは我が請いを容れて愛子を托するを得んと」
(矢野顯蔵著「仙台士鑑」より抜粋)
数時間前には敵として激しい戦いを繰り広げていた大坂方の名将・真田幸村が、
自分を見込んで愛娘を託したいと願っている――
そうと知った重長は、大きな栄誉と重責に身震いする思いでした。
さっそく駕籠の中にいた姫を呼びにやると、連れて来られたのはまだ12~3の可憐な少女です。
これが戦国期の血で血を洗う時代を生きてきた彼の父、片倉小十郎景綱や主君伊達政宗であったなら、また違う感想を持ったかも知れません。
重長は戦国の世が終わろうとしている時代に生まれ、伊達家の重臣の子として大事に育てられてきた、生まれながらのプリンスです。
若さも手伝って父や主に比べるとだいぶ、いや極めて素直でした。
彼は頼れる家族もなく、身一つで他家に送られてきた小さな姫にいたく同情し、その保護を堅く約束。
「なにぶん戦場ゆえ……」と照れながら、瓜やら煮豆やらを差し出し、「奥州は遠い所ですが……」などと頑張って会話に努めるやらで、うん、ほんと良い人でした。
重長をはじめとした片倉隊の面々が、男だらけのムサい戦場に突如現れた天女のような美しい少女にアワアワ……する一方で、阿梅姫は懐に懐剣を忍ばせ対面したと言います。
年頃の娘が落城のどさくさに紛れて身ぐるみ剥がされ、乱暴された上で人買いに売られるなど珍しくもない時代の話です。
たとえ上手く戦場を脱して片倉の陣に入ることができても、片倉の大将が阿梅姫を徳川に差し出さないとは限りません。
幸村が死を覚悟して臨む明日の決戦を前にその娘が徳川に捕らえられるなど断じてあってはならないこと。
いざと言う時は真田の名を汚さぬよう、未練なく自害せねばならない。
そんな死を覚悟して重長との対面に臨んだ阿梅姫の緊張はピークに達していました。
しかし、今、彼女の前でぎこちなく接待に努めている男は、整った顔にあちこち擦り傷をこしらえ、さらに足も脇腹も痛めているようで、なるほど今日の戦闘では激しく戦ったのだろうと推察することができる程の惨憺たる有り様ながら、父・幸村から聞かされていた荒武者のイメージとは遠く掛け離れておりました。
若干挙動不審になりつつも、なんとか姫を励まそうとする男から醸し出される純朴で温厚な雰囲気。
姫とその従者達の間にも、ようやくほっとした雰囲気が生まれたのでした。
しかし、これが功名や褒賞欲しさに姫を徳川に売るような人だったらどうなっていたか。
この辺り、幸村の人を見る目は確かですね。
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