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【片倉重長と阿梅】
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父譲りの知謀と武勇 母譲りの美貌
現代で「片倉小十郎」と言えばお父さんの景綱の方が有名ですね。
しかし当時は、東西の名だたる武将達がぶつかり合う夏の陣で華々しい活躍をした息子・片倉重長の名が一躍全国区レベルになり、たちまち彼は伊達家の看板武士となりました。
この戦において、彼の部隊は後藤又兵衛だけでなく、やはり大坂方で豪将と名高い薄田隼人兼相など数々の武将を討ち取り、彼自身も四つの首級を挙げています。
一兵卒でも殊勲ものなのに、部隊の指揮官が四人も討ち取るなんてすごい武功です。
まあ、後で怒られる訳ですが。
彼は政宗の右腕片倉小十郎景綱の長男として生まれています。
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夏の陣ではすでに誰もが認める伊達家の若きホープとなった彼は、実は生まれる前に一度死にかけています。
まだお母さんのお腹の中にいた頃、お父さんの景綱が
「主家(政宗)に跡継ぎがないのに、我が家で先に子供ができるとはなんたる不忠! 男だったら殺す」
というナゾの忠誠心をカッ飛ばしたせいで、いきなり殺されそうになっていたのです。
さすがに、この訳の分からない理屈には政宗もドン引いて、必死に止めてくれたお陰で重長は一命を取り留めています。
もし主君が止めてくれなかったら夏の陣での活躍も、現代の鬼小十郎祭り(in宮城県白石市)もなかった訳で、人間生きてこそ……とコメントするしかありません。
そんなこんなで生まれる前から(父親が)周囲を心配させて生まれてきた重長は、生まれてみるとこれが父譲りの知謀と武勇、母譲りの美貌+伊達家の重臣片倉家の嫡男という毛並の良さで周囲にモテまくります。
そう聞いてしまうと、ついリア充爆発しろと思ってしまうのですが、なんと言っても時は戦国乱世、モテたのは女性にだけではないようです。
小早川→片倉重綱「一晩だけ」と迫られる
彼が18の頃。
その道で有名な小早川秀秋に「一度でいいから臥所(お布団)を共に!」と追い掛け回された末、不幸にも小早川さんの根回しを受けた政宗に「どうせ一晩の事なんだし、俺を信じてガンバレ」などと、他人事にも程がある手紙をもらったりしています。
家臣の命は大事でも、貞操はそんなに大事じゃない。
美男が生きることがこんなに大変な時代があったでしょうか。
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おっと、話が逸れ過ぎました。
そんな訳で伊達家中でも将来を嘱望されていた片倉重長ですから、その奮戦はかえって政宗を焦らせました。
父親である景綱は病のため今回の戦には参陣しておらず、万が一、跡継ぎの重長が討ち取られるような事態となれば片倉家の存続に関わる一大事です。
又兵衛を生け捕りにするため、自軍に鉄砲の使用を制限させていた政宗も、逆に又兵衛の凄まじい猛攻の前に片倉隊の小隊長クラスが次々と討死。
それに激昂した重長が劣勢にも関わらず大将自ら暴れまくっているのを見て、こいつが死んじゃったらどうしよう……と気が気ではありません。
さらに、ここでとどめとばかりに危難の片倉隊を助けるため、伊達家の重臣である茂庭家の嫡男・茂庭良綱が又兵衛に向かって特攻します。
片倉家と茂庭家。
伊達の三傑と呼ばれた智・武・政に秀でた伊達家中の三つの家のうち、智と政の片倉・茂庭家の総領息子達ですよ。
相手は「これがこの世の最後の一戦!」と、物狂いして暴れる豪将・後藤又兵衛です。
重長の救援に向かった良綱もあっと言う間に追いつめられ、まさに討ち取られるかと思われたその時、跡取り達のピンチに焦った政宗がここに至って片倉隊に鉄砲の使用を許可し、ついに後藤又兵衛を討ち取ったのでした。
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なんかもう、ラスボスを倒した感のある片倉隊――この戦いは道明寺の戦いにおけるほんの緒戦に過ぎません。
鉄砲の使用許可を得て勢いづいた片倉隊は、その後も数々の首級を挙げていきます。
資料によると、この日に片倉隊が討ち取った首級は91。
この戦で挙げた首級は210以上と、伊達軍全体で挙げた首級の4分の1程にもなります。いやはや、とんでもないですね。
しかし、後藤、薄田の両雄を討ち取った片倉隊も、5~6時間に及ぶ戦闘に段々と疲れが見え始め、勢いが鈍ってきます。
家士を叱咤し、自らも乱戦の中で刃を振るっていた重長は、このとき最前線を維持していたの隊列が突如乱れ、後退を始めました。
乱戦で疲弊した伊達軍にあいつがキター
「つるべ撃ち」という戦法をご存じでしょうか。
馬どころの仙台藩では騎馬八百騎に鉄砲を装備させ、馬上からの集中砲火で敵の戦列を乱し一気に距離を詰めるという戦い方を得意としていたとされます。
「鉄砲の煙の下より直ちに乗り込んで駆け散らす。馬蹄に蹂躙せられて、敵敗績せずと云うことなし」
そう言われた精強な伊達の騎馬鉄砲隊ですが、押し寄せる敵になすすべもなく追い崩されてしまいます。
なぜなら、そこで対峙したのは「白地に六文銭」の旗印。
そう。幸村率いる真田隊の決死の突撃でした。
八百もの銃騎兵から次々と浴びせられる銃弾の嵐の中、幸村は徒の兵に槍を取らせず、兜も着せずに地面に伏せさせ、ひたすら敵が接近して来るのを待ちました。
砲火が途絶え、銃煙が戦場に満ちます。
と、今度は騎馬が雪崩を打って押し寄せる。
当日に発生した濃霧も相まって敵の姿は見えず、ただ敵が挙げる喚声と地面を震わせる馬蹄の響きだけが敵の接近を知らせるのみ。
轡を並べた騎馬の一隊が目前に迫り、真田隊の第一列がまさにその蹄に掛けられようとした時のことでした。
幸村の下知で伏せていた兵が一斉に立ち上がり、槍の穂先を突き出し決死の突撃を始めたのです。
馬は元来とても繊細な生き物であります。
地面から突然現れた槍に驚いて棹立ちになり、落馬する者が続出しました。
横一列だった馬並は乱れ、スピードが失われたたため騎馬の強みである圧倒的な突貫力も同時に喪失。
決死の覚悟で向かってくる真田隊に騎馬がバラバラに応戦すると、戦場はこれまで以上に混乱しました。
こうなれば後は気合いと勢いにまさる方の勝ちです。
武器も持たずに敵の接近を待ち続け、生きるためには死に物狂いで戦うしかない――そんな瀬戸際で初めて立ち上がった真田隊の勢いは凄まじく、戦い続きで疲労していた片倉隊はあっと言う間に七~八百メートルも押し返されました。
真田隊にとって、敵は大軍、しかも騎兵で銃まで装備しています。
対してこちらは新規に雇われた浪人ばかりで、救援するはずの又兵衛もすでに討ち取られ、もはや自分達だけで戦うより他に道がありません。
このような切迫した状況下で、武器も持たされず、一人また一人と味方が銃弾に倒れて行く中、昨日今日出会ったばかりの真田隊の浪人達がどうしてここまで幸村の命に忠実に従うことができたのか。
後藤隊や薄田隊とはまた違う、真田用兵の強さの一端をここに見る思いがします。
幸村の伏兵を警戒した政宗が攻撃を中止
一方、伊達軍の先鋒・片倉隊では、大将の片倉重長が幸村と槍を交えるべく乱戦の中、馬を駆っていました。
しかし、幸村は直接戦うことを好まず、戦場を離脱すると近くにあった丘陵に後退します。
ここで幸村の伏兵を警戒した政宗が攻撃を中止させ、両軍は膠着状態に入ります。
これに対し、徳川方が真田隊を追うよう要請したり、政宗の娘婿・松平忠輝も伊達軍の殿をかって出るのですが、幸村を打ち破る事が目的ではない政宗は兵の疲労などを理由に断っています。
いや、戦ってるのは他の人も一緒なんですけど……などとツッコんではいけません。
前述の通り、外様大名である政宗にとって「大坂夏の陣」とは徳川への忠義を示すために出てきた戦です。
やる気がないのは徳川方にバレているのも分かっているし、そのせいで最前線でコキ使われるのも充分に理解しているのですから、真面目にやるのも馬鹿馬鹿し……いやいや真面目にはやります、ただし、徳川の望まない方向へ。
要は、自軍兵力の温存を第一に考えるのが伊達家の当主として当然の判断です。
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