慶長20年(1615年)5月6日は後藤又兵衛基次の命日です。
黒田官兵衛に仕えていながら、最期は大坂の陣で派手に散る――そんな尖った経歴が印象深く、又兵衛のファンという方も少なくないでしょう。
実際、大河ドラマでも注目されやすく、特に2016年の『真田丸』では哀川翔さんのパワフルキャラが話題となりました。
本記事では、史実における後藤又兵衛基次を振り返ってみましょう。
※本稿では最も馴染みのある「又兵衛」で統一します

後藤又兵衛基次/Wikipediaより引用
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後藤又兵衛基次・もとは小寺家臣の子
後藤又兵衛基次は永禄3年(1560年)、播磨国姫路近郊の神東郡山田村生まれ。
黒田官兵衛孝高(以下官兵衛)は天文15年(1546年)生まれですから、14才下になります。だいたい一回りといったところですね。
官兵衛の子である黒田長政は、永禄11年(1568年)で8才下。
父・後藤新左衛門は、もともと播磨別所氏の家臣で、のち小寺政職に仕えました。
小寺政職といえば、黒田官兵衛の主君でもあります。
ドラマ『軍師官兵衛』では片岡鶴太郎さんが演じられていたことでご記憶の方も多いでしょう。
後に官兵衛を裏切って荒木村重に売り、結局、滅ぼされてしまいます。
黒田家で養われる
父を早くに失った後藤又兵衛基次は、幼少期から官兵衛に養育され、その薫陶を受けて育ちます。

黒田官兵衛/wikipediaより引用
『軍師官兵衛』では、以下のようなシーンがありました。
官兵衛の薫陶を受けた又兵衛
↓
その又兵衛が、官兵衛の実子である長政にダメ出し
↓
長政、キレる
長政の代になって黒田家を出奔しますので、まぁ長政とは色々あったに違いありません。
ドラマでも、長政に対して「父上ならそんなことしない」とダメ出しする又兵衛は、ちょっとイラッとしておりました。
史実でも、まるで父であるかのように官兵衛を慕っていた又兵衛ですが、黒田家が最も辛いときに裏切るような行動を取ります。
「俺の家が一番大変な時に離反しやがって」
天正6年(1578年)、官兵衛は織田信長に背いた荒木村重によって、有岡城に幽閉されてしまいます。
このとき、残された官兵衛の夫人・櫛橋光、そして黒田家家臣一同は結束を強めます。

櫛橋光/wikipediaより引用
主君がどうあれ、我々はしっかり留守を守ろうというスクラムです。
しかしこのとき、誓紙への署名を又兵衛の伯父・藤岡九兵衛が拒み、又兵衛もこれに従うのです。
後藤又兵衛基次、このときまだ二十歳前。
父は病死しており、伯父の意向には逆らえなかったのでしょう。
しかし、そんな言い訳が通じるわけもありません。
伯父ともども、又兵衛は一族追放処分を受けてしまいます。
又兵衛は、豊臣秀吉の配下であり、マンガ『センゴク』でも知られる仙石秀久に仕官しました。
ちなみにこの官兵衛の幽閉時、当時まだ松寿丸と名乗っていた長政が、大変な目に遭っております。
村重と共に官兵衛も織田を裏切ったとみなされ、その子までもが謀反人として首を要求されたのです。
このときは、官兵衛の盟友とされる竹中半兵衛の機転により、松寿丸は一命をとりとめております。

竹中半兵衛/wikipediaより引用
ゆえに又兵衛に対しては官兵衛が許したとしても、長政として釈然としないのも仕方ありません。
「俺の家が一番大変な時に離反しやがって」
そんな風に思うほうがむしろ自然ではないでしょうか。
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