後藤又兵衛基次

黒田家

播磨の戦国武将・後藤又兵衛基次の生涯~黒田家を追われた猛将は大坂の陣で豊臣方へ

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
後藤又兵衛基次
をクリックお願いします。

 


黒田家臣としてカムバックを果たす

後藤又兵衛基次は、勇猛な武将でした。

彼の新たな主君である仙石秀久は、豊臣家の武将として九州征伐に参戦。

しかし、勇猛で知られる島津家を前に【戸次川の戦い】で大敗してしまいます。

長宗我部元親や信親ら親子も、仙石による判断ミスの巻き添えに遭ったとして知られる戦いですね。

仙石秀久/Wikipediaより引用

このあと天正14年(1586年)頃から、又兵衛は栗山善助利安の与力として、黒田家に復帰するのです。

黒田家としても、有能な又兵衛は是非復帰して欲しいところ。

過去のことは水に流して、うまくやろうじゃないか、となったわけです。

確かに又兵衛は強かった。

九州征伐、朝鮮出兵、そして関ヶ原の戦いまで、又兵衛はその豪勇ぶりを遺憾なく発揮します。

そして、大隈城(益富城)城主として、16,000石の所領を与えられたのです。

大出世です。素晴らしい!

しかし、主君である長政の胸の奥底には、又兵衛への屈折した思いがくすぶっておりました。

黒田長政
あの官兵衛の嫡男・黒田長政とは? 偉大な父を持つ二世の苦悩56年の生涯

続きを見る

上の記事にもある通り、戦闘中、水中に転落した長政を放置することがありました。

又兵衛にも言い分はあるのでしょうが、長政にすれば、

「主君が死にかけているのに放置って、さては逆らう気だなオメー」

となっても仕方のないところです。

幼い頃は、官兵衛の元で育った二人。官兵衛としては、長政にとって兄のような存在を育てた気であったかもしれません。

しかし、完全に裏目に出ました。

 


「奉公構≒絶縁」という重すぎる処分

慶長9年(1604年)、後藤又兵衛基次が薫陶を受けた官兵衛が世を去ります。

徳川幕府が成立し、世の中から荒々しさ、戦が消えてゆく、太平の世が始まったばかりでした。

「待っていたぜ、この時をよぅ!」

そう言わんばかりに、黒田長政は又兵衛を追放することにします。

黒田長政/wikipediaより引用

功臣であったにせよ、様々な言動が長政のカンにさわったのでしょう。

又兵衛は、長政と犬猿の仲であった細川忠興と交際する等、神経を逆撫でするような行動をとり続けていました。

まぁ、ここまでは、よくあるわけじゃないけど、わからなくもない話。

切腹させるよりは、マシかもしれません。

問題は、追放に【奉公構(ほうこうかまい)】というオプションをつけたことでしょう。

奉公構とは【コイツがやって来ても、絶対に仕官させないでください! 仕官させたら黒田家とはケンカということで!】と、他家に宣言すること。

わかりやすく言いますと、勤務先をクビにしたうえに、再就職に歯止めをかけるという、社会的に抹殺する行動です。

又兵衛ほどの武勇の持ち主ならば、他家でも引く手あまたのはずですが、長政はそれすら許さなかったのです。

慶長11年(1606年)、又兵衛は黒田家のある筑前を立ち退きました。

その後、池田輝政のもとに落ち着くのですが、

池田輝政/wikipediaより引用

長政は目を光らせています。

「うちをクビにした後藤又兵衛、おたくにいますよね? なんで勝手に匿っているんですか?」

そうクレームをつけました。そして……。

又兵衛は慶長16年(1608年)、池田家を離れることになります。

長政、ちょっと大人げないですよね。

 


「大坂の陣」に参戦

しかし、長政だけ責めるというのも酷というもの。

後藤又兵衛基次にもそれだけの非はありました。

池田輝政だけではなく、よりにもよって長政と不仲の細川忠興のもとにも身を寄せたことがあったのです。

細川忠興/wikipediaより引用

慶長16年(1608年)には、見かねた徳川家臣・成瀬正成らが、長政への帰参斡旋をしたこともありました。

しかし、結局失敗に終わってしまいます。

そうこうしているうちに、江戸と大坂の間で不協和音が響き始めます。

そして慶長19年(1614年)、大坂の陣の火蓋が切って落とされました。

又兵衛は、浪人として大坂に身を落ち着けました。

そのあとを黒田家が探索してきて、又兵衛の子を捕縛します。

豊臣秀頼は、浪人であろうと、大坂に住むものはわが民である――と基次父子を庇いました。

豊臣秀頼/wikipediaより引用

又兵衛が大坂方に馳せ参じたのは、その恩義ゆえともされます。

あるいは、腕のふるいどころ、はたまた死に場所を求めてなのでしょうか。

又兵衛のような浪人は、当時不満を抱えていました。

食い詰めており、腕を見せる機会もない。

そんな浪人たちにとって、大坂方は晴の舞台です。

元は豊臣恩顧であっても、大名やその家臣で大坂方についた者はほとんどおりません。

忠義を見せるためというよりは、生きてゆく場所を失い、追い詰められて、集ってきたのです。

そんな中でも、際だっていたのが又兵衛を含めた以下のメンバーでした。

※続きは【次のページへ】をclick!


次のページへ >



-黒田家
-

×