長宗我部元親

長宗我部元親/wikipediaより引用

長宗我部家

長宗我部元親が土佐一国から戦乱の四国を統一!最期は失意に終わった61年の生涯

土佐の一領主から四国をほぼ統一するまで――戦国の世に急成長した長宗我部元親の生年は意外と古く感じるかもしれない。

織田信長に遅れること5年。

天文八年(1539年)、土佐の地に誕生した。

父は、岡豊(おこう)城主で20代目の長宗我部国親。

母は、美濃の守護代を務めていた斎藤利良の娘。

元親は、7人兄弟(男子4人、女子3人または4人の説もある)の長兄であった。

岡豊城は、現在の高知県南国市に位置していて、元親の生涯は1599年7月11日(慶長4年5月19日)、失意のうちに最期を迎えてしまう。

いったい何が起きていたのか?

本題である元親の生涯の前に、まずは長宗我部家の歴史から少し辿ってみよう。

 


ルーツは大陸からの渡来人 姓は「秦(はた)」

もともと長宗我部家は土佐国人の1つだった。

ルーツは大陸から日本に渡ってきた渡来人であり、姓を「秦(はた)」とするのが通説である。

秦氏の遠祖は秦の始皇帝と言われ、元親も公文書において「長宗我部宮内少輔秦元親」と記しており、元親以外も長宗我部一族は代々「秦」を名乗っていた。

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秦氏系図の次に現れる「長宗我部氏系図」の初代は秦能俊(はた よしとし)である。

大正時代に編纂された『更級郡記』には、1156年【保元の乱】で崇徳上皇側についた秦能俊が敗戦後、拠点であった信濃を去り、土佐の「長岡郡曾我部」に隠れ、これが長曾我部(長宗我部)氏の祖となったと記述されている。

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江戸前期に長宗我部の元家臣が書いた『元親記』には

「秦能俊が土佐の国司となり、土佐に三千貫を拝領する綸旨を受けて盃を賜った」

とある。

秦能俊が天皇より頂いた盃には「酢漿草(かたばみ)」の葉が一つ浮かんでおり、秦能俊はそれを飲み干して、以降その酢漿草を長宗我部家の紋としたとの伝承があり、「七酢漿草(ななつかたばみ)」が代表的な家紋となった。

長宗我部氏家紋「七つ酢漿草」/photo by 百楽兎 wikipediaより引用

七酢漿草は軍旗としても用いられている。

 


土佐に広がる7つの勢力で最弱だった

時は過ぎ、元親の曾祖父にあたる18代雄親(かつちか)の時代。

このころ土佐には7つの勢力がひしめいていた。

・長宗我部(長岡郡)
・本山氏(長岡郡)
・津野氏(高岡郡)
・大平氏(高岡郡)
・安芸氏(安芸郡)
・吉良氏(吾川郡)
・一条氏(幡多郡)

彼らを「土佐七雄」と呼び国内の勢力を分かち合っていたが、家格・勢力には大きなバラつきがあった。

圧倒的なのは、京都から下向した元五摂家(藤原氏)の一条氏で、国力は一万六千貫(一貫は約2石)。

その他の勢力が4~5千貫の領地であるのに対し、長宗我部は最弱の3千貫であった。

元親の祖父にあたる19代兼序(かねつぐ)は、一条氏や中央政権の細川氏と懇意にしていたが、これが土佐の他豪族から反感を買う。

永正五年(1508年)には、本山氏をはじめとした諸豪族の連合軍に岡豊城(おこうじょう)を落とされ、すべての領地を奪われてしまった。

このとき連合軍3000人に対し長宗我部軍は5~600人ゆえにやむを得ない敗戦。

兼序は自害し、長宗我部家はいったん滅亡するが(生き延びた説もあり)、嫡男の千雄丸(後の国親)は一条氏を頼って幡多郡中村へと逃れ、10年後に同氏の仲介で城と旧領を回復した。

城と領地は戻ったものの、10年の歳月は長く、長宗我部家の旧臣の中には他家に仕えている者もあった。

せっかく家を復活させることができても、少ない家臣で諸豪族と戦う事はできない。

そこで国親は、経済基盤作りと兵力の増強に着手し、農民の中から見所のあるものを武士として登用し家臣団を再編していくことにした。

これが、土佐独自の軍事システム【一両具足】の基礎となった。

一両具足とは、平時は農民として生活し、領主から招集がかかると素早く馳せ参じられるよう、一領(ひとそろい)の具足(鎧・刀)を田畑に置いて農作業をしていたことから呼称されたと伝わる。

 


内気でひきこもりの「姫若子」と呼ばれ

大永二年(1522年)。

国親は19歳で正室を娶ると、2年後に長女が生まれた。

その後なかなか子が出来ず、天文八年(1539年)になってようやく誕生したのが嫡男の元親である。

元親は幼名を弥三郎と称した。

長らく待った待望の跡継ぎではあったが、幼い頃はあまり期待の出来ない人物だと評されていた。

江戸中期に記された軍記物『土佐物語』(長宗我部家の興亡を描く)に、幼いころの記述がある。

それによると

「元親は背が高く色白で、器量は良いが、必要なこと以外はほとんど喋らない。人にあっても会釈をせず、いつも屋敷の奥に引きこもっている」

ので「姫若子(ひめわこ)」と揶揄され嘲笑の的だった。

父親も「嫡男がこんな有様では当家も終わりだ」と深く嘆いていた。

岡豊に戻った国親は孤立無援であった。

そこで、まずは岡豊から半里の近郊にあった吉田城の吉田周孝(たかちか)と同盟を締結する。

周孝は国親の叔母の婿にあたる人物で、国親より年長で、策士であり、相談しやすい人物であった。

国親は周孝の進言に従い、善政を敷き国力を高め時節を待った。

そして天文12年(1543年)、近隣への侵攻を開始する。

翌年には土佐の安定を考えた一条氏の勧めで、仇敵・本山家に長女を嫁がせたものの、領土拡大の意欲は止まらず、天文十六年(1547年)、手始めに天竺氏の大津城(高知県・高知市)を落とすと、その勢いで介良(高知市)、下田、十市(南国市)、池(高知市)の各城を攻略した。

十市・池城攻略の際は、最終的に自分の娘を十市城主・細川宗桃(そうとう)の嫡男であり、池城城主であった細川頼定に嫁がせ傘下に入れている。

土佐中央部を手中に収めた国親は、更に弘治2年(1556年)、本山氏の支城に対して攻撃を開始。

弘治四年(1558年)には、弱体化した香宗我部家に三男・親泰を養子に出し、自陣営への取り込みに成功した。

このあたりは毛利元就が息子を吉川家、小早川家に養子に出し家を乗っ取った方法に似ていおり、国親の手腕のほどが窺える。

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この後、親泰は兄である元親をよく助け、四国統一に大きく貢献するのであった。

 

「長浜の戦い」初陣で評価が一変!

天文二十四年(1555年)に本山茂宗が死去。国親は同氏への攻勢を強めた。

これに対し、跡を継いだ本山茂辰(しげとき)は長宗我部の兵糧を配下の住民に略奪させる。

一気に高まる両者の緊張。

これを破ったのは国親で、略奪の報復として本山氏配下の長浜城を攻撃、これを陥落させた。

一方、本山茂辰も、長浜城奪還のため2,500の兵を率いて出陣し、長宗我部勢は1,000の兵力でこれを受けることとなった。

両軍は永徳三年(1560年)5月27日、長浜戸の本で激突!

長宗我部と本山の命運をかけたこの戦いは元親の初陣でもあった。

齢22歳。かなり遅い初陣である。

しかも戦いを前にして、家臣に「槍の使い方を聞く有様」で周囲を大いに不安にしたが、いざ合戦がはじまると元親は突如「姫」ではなく「鬼」に変貌するのであった。

『土佐物語』(訳は後述)

覚世の子息弥三郎元親十八歳、今日初陣成りけるが、いかがしてか味方を離れ、戸の本の西の方に、廿騎計にて控へ給ふ。吉良の士是を見て、願ふ所の幸なりと、大窪美作・其子勘十郎・吉良民部・宇賀平兵衛・長越前・河村四郎左右衛門を始めとして、五十騎計に驀直に打つて掛る。元親少しも疑議せず、鑓取て近付き、敵三騎、弓手馬手に突伏せ、大声を挙げて、「昨日までも互いに肩をならべ膝を交せし同僚ぞかし。爰に引退きて、何の面目有りて再び人に面を合わすべき。夫武士は、命より名こそ惜しけれ。一足も引くべからず」と駆出で出で下知し給へば、元よりはやりをの若者共、此詞に励まされ、黒煙を立てゝぞ打合ける。

簡単に訳せば、こんな感じだ。

「元親は何故か味方の部隊から離れて二十騎ほどで控えていた。

これを見た本山軍はチャンスとばかりに五十騎ほどで討ってかかった。

が、元親はこれを少しも恐れず、槍を取って敵三騎を突き伏せ、味方を激励した」

ヤンマガの人気作品『センゴク』でも、元親は何だか不思議な人物として描かれていたが、いざ合戦となるや鬼神の働き。

姫若子が【鬼若子(おにわこ)】と呼ばれるようになったのも頷ける。

この【長浜の戦い】は数の上で劣勢だった長宗我部が勝利し、本山茂辰は浦戸城へと逃げ込んだ。

『元親記』にも、元親が五十騎ほどを指揮して乱戦の中を突き抜け、劣勢だった長宗我部の軍を形勢逆転させたとある。

突然の息子の活躍を見て、国親は頼もしく思ったことだろう。

ここから親子で土佐統一へ……とはいかなかった。

本山軍を打ち払い、本拠地に引き上げた国親はそのまま病床につき20日ほどで死去してしまったのである。享年57。

死に際して国親は元親にこう伝えた。

「私は父の敵である本山を討つことを本望としてきた。

だから本山を討つ以外に私への供養はない。

私が死んだら世の習いなので7日は喪にふせ、それが過ぎたのなら喪服を脱ぎ甲冑に替え軍議を行え」

姫から鬼へと変貌を遂げた息子に、全てを託す価値があると安心したことだろう。

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