大河ドラマ『麒麟がくる』ですっかり有名になった織田信長の父と言えば?
そうです「織田信秀」ですね。
高橋克典さんの好演が強く印象に残っている方も少なくないでしょう。
※以下は織田信秀の考察記事となります
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では「織田秀信」はご存知でしょうか?
織田信秀とは「信」と「秀」の字が逆という、なんだかややこしいこの御方。
織田信秀
織田秀信
実は織田信長の孫なんですが、世間ではもっとよく知られた名前があります。
三法師です。
そう、清州会議で中心となったあの三法師であり織田信忠の息子なんですね。
信長の嫡男が信忠で、その跡継ぎである三法師は嫡孫にあたり、元服してから「織田秀信」になりました。
◆織田家の当主変遷
織田信秀(曽祖父)
│
織田信長(祖父)
│
織田信忠(父)
│
三法師(織田秀信)
ただ……織田家の通字である「信」より「秀」が先に来ているあたりに秀吉の陰謀が感じられるのは気のせいでしょうか。
1605年7月13日(慶長10年5月27日)は、そんな三法師こと織田秀信の命日。
本稿で、その生涯を振り返ってみたいと思います。
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三法師こと織田秀信 1580年に生まれる
三法師こと織田秀信が生まれたのは天正八年(1580年)。
本能寺の変が起きたときは数え歳でわずか3歳でした。
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当然、清洲会議のときも3歳です。
物心がつくつかないどころの話ではありません。
ただしそのおかげで京都近辺には行っておらず、岐阜城にいたおかげで助かりました。
が、そのままで済むはずもなく、織田家の継承問題から渦中の人となってしまい、清洲会議により3歳にして織田家の主となりました。
なお、従来の清洲会議は、織田家の信雄と信孝が家督を争っていたときに、秀吉が三法師を担いで現れ「こちらが跡取りじゃ!」という流れがフィクションの定番でした。
昨今は、三法師の跡取りは既定路線であり、その後見役の座を巡って織田家や重臣たちの思惑がぶつかりあったとされています(その詳細は以下の記事に)。
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いずれにせよまだ3歳の三法師では、実務などできません。
そこで当分の間は堀秀政という信長の側近を務めていた人物に預かりということとなりました。
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親戚・家臣の間をたらい回し状態
幼いながらも織田家の跡取りであり、しかも信長の嫡孫でもある三法師。
不幸にも多くの親類筋や家臣たちから良い意味でも悪い意味でも一挙手一投足を見張られるような状態で、秀吉の政争相手である織田信孝(信長の三男)からは「お前、しばらく岐阜城にいろ」と圧をかけられてしまいます。
信孝は、三法師の父・信忠の弟です。
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つまり叔父さんから監視されるという何ともイヤな生活ですね。
親戚をたらい回しにされる子供のようで胸が痛くなってきますが、この一件に関してはすぐに秀吉が「三法師様を出せ!!」と言って兵まで繰り出し、無事に終息しています。
もちろん秀吉とて『三法師様がかわいい』とかそんな甘い理由ではなく、あくまで政争の一環。
清州会議の翌年に秀吉と柴田勝家が【賤ヶ岳の戦い】で衝突し、勝家と信孝が自害した後は、もう一人の叔父・織田信雄(信長の次男)の後押しを得ました。
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ただし、実際に身を寄せたのは親族の誰でもなく「米五郎左」こと丹羽長秀のところだったりします。
天正十六年(1588年)には岐阜城で元服したとされ、この幼児は年齢一ケタのうちに一体何度引越しをしたのか? と考えると、哀れになってきます。そして……。
岐阜城で元服すると多くの人が慕ってきた
三法師こと織田秀信は、元服と同時に従四位下・侍従という位につきました。
世間的にはエリートコースであり、この2年後の1590年にはわずか11歳で【小田原征伐】に参加したということになっています。
さすがに11歳で参加は怪しくないか? という見方もありますが、どのみち人生凝縮されすぎなことには変わりないでしょう。
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それは領地に関しても同じことで、12歳のときに岐阜13万石の大名になっています。
前領主だった秀吉の義理の息子が亡くなってしまったからなのですが……。
織田秀信が領主になると決まった途端、斎藤家(道三の家)や土岐家(道三に下克上された家)の旧臣・縁者や、名のある剣豪などがわらわらと集まってきたそうです。
歳が歳ですから実績はまだ皆無に等しいながら、【信長の嫡孫】であることが多くの人を集めたのでしょう。
それを本人も自覚していたのか、やがて実務を執るようになってからは、祖父の政策のいいとこどり+寛容さで善政を布いていたようです。
特に宗教については寛大で、自らはキリスト教に傾倒しつつも、寺院の保護も積極的に行っていました。この若様、出来杉君。
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