建久3年(1192年)7月12日は源頼朝が征夷大将軍に任じられた日です。
1192年の「いいくに」なのか。
あるいは守護地頭設置の1185年「いいはこ」なのか。
論争はあるにせよ武士の世・鎌倉時代(鎌倉幕府)の始まりですね。
歴史的に大きな区分としては室町時代【1338-1573年】と合わせて「中世」となりますが、では、中世って何?
となりますと、これはヨーロッパの歴史を踏まえて考えられた概念で「封建的な武家政権の世の中」ということになります。
だったら江戸時代も中世では?
なんてツッコミも確かにその通りですが、土地制度なども含むと支配構造が大きく異なるため、通説では中世=鎌倉・室町時代(江戸幕府の成立まで)と考えておいた方が良さそうですね。
室町時代の終わり【戦国・安土桃山時代】も含めて中世という考え方です。
ちなみに他の区分も見ておきますと、
古代=飛鳥・奈良・平安
中世=鎌倉・室町(戦国&安土桃山)
近世=江戸時代
近代=明治・大正・昭和(~戦前)
現代=昭和(戦後~)・平成
こんな状態ですね。
ということで本稿では、1333年までの鎌倉時代を一気読みしてみたいと思います。
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1185年から7年間の準備期間
さて。
一見どうでもよさそうな、歴史の区分。なぜ、そんなところから触れたのか?
と申しますと、平安~鎌倉時代の変遷がなかなかややこしいんですよね。
平安時代の最後の数年間は
◆源平時代(1180~1185年)
◆幕府準備期間(1185~1192年)
とまぁ、スンナリと鎌倉時代にはなっていない。
「◆源平時代」は【治承・寿永の乱】と呼ばれる、いわば源平の戦いです。
一方「◆幕府準備期間」は、年号で言いますと1185~1192年に相当し、壇ノ浦の戦いから頼朝が征夷大将軍に任ぜられるまでの7年間になります。
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壇ノ浦の戦いで平家が滅びた元暦二年(1185年)
↓
―――この間約7年間―――
↓
源頼朝が征夷大将軍に任じられた建久三年(1192年)
一体この7年間に何が行われていたのか?
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも一通りの流れが触れられましたが、一言でまとめれば「頼朝と後白河法皇の政治的やりくり」です。
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同時に頼朝は、源義経や源範頼の始末も進めており、この辺が、武士というより政治家と評される所以なのでしょう。
では具体的に先へ進んで参りましょう。
侍所や公文所を設置する
元暦二年(1185年)、京都で【文治地震】という大きな地震が発生。
平家が滅びた4ヶ月ほど後のことです。
その厄払いのため&平家に焼かれたときの修復を兼ね、東大寺の大仏や大仏殿が、後白河法皇の主導によって修復されました。
一方、頼朝は、平家打倒の前から鎌倉幕府のキモとなる役所・役職をいくつか作っています。
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箇条書きすると以下のようになります。
名称 | 役割 |
---|---|
侍所 | 御家人を統率する組織 |
公文所 | 政治を担当する部署で後に「政所(まんどころ)」と改める |
問注所 | 裁判担当 |
守護 | 国(旧国名)に一人任じられ、その国内の警察を務める |
地頭 | 荘園や公領など、国より小さい単位で任じられ、年貢の徴収と治安維持を担当する |
良くも悪くも、時代が移り変わっていったのがこの7年間。
後白河法皇に対して頼朝は、着実に支配力を強めていったのですね。
これにて武家政権は盤石に!と思われる鎌倉時代(鎌倉幕府)の始まりですが、その経営はわずか30年足らずで暗礁に乗り上げてしまいます。
源氏を棟梁とした将軍が次々に亡くなってしまうのです。
源氏将軍が次々に消えていく
まず1199年に初代・源頼朝が亡くなった後、嫡男の源頼家が将軍の位を継ぎますが、この頼家が母(北条政子)の実家&最大の勢力者だった北条氏と対立。
結果、暗殺されてしまいます。1204年のことでした。
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あくまで私の考えですが、北条氏が頼家の若さを侮って、アレコレしたのでしょう。
それでなくても頼朝が兄弟を滅ぼしまくって味方の少ない頼家です。
彼は乳母の一族である比企氏や歳の近い近習を重用し、北条氏に対抗しようとしておりましたが、先に比企氏を滅ぼされ、暗殺という憂き目に遭いました。
そして今度は頼朝の末子であり、頼家の弟である源実朝が将軍に据えられ、これまた暗殺されてしまいます。ヤッたのは頼家の息子・公暁でした。
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理由は未だ不明。
公暁自身もすぐに誅殺されてしまうのですから、もう、源氏の内輪揉めもここまで来るとそういう血なのかと思わざるを得ません。
結果、幕府創立から30年もしないうちに、将軍の直系が絶えるという大惨事に陥りました。
他の親戚筋もどんどん始末され……
多くの兄弟は頼朝自身が滅ぼしてしまいましたが、他にも源氏の親戚筋はおります。
それが北条氏らによってはどんどん始末されてしまいまして。
例えばその中には、義朝の七男(=頼朝らの兄弟)・阿野全成の息子などがいました。
一応、義経のすぐ上の兄・義円の息子である義成もいたのですが、彼は義円が墨俣川の戦いで敗死した後、尾張国愛智郡で育っていたので、無関係とみなされていたようです。
源姓を使わず「愛智義成」と名乗っていますし、あるいは北条氏が義成の存在や血縁関係を知らなかった可能性もありますかね。
義成の子孫がどこまで続いたかは不明ですが、織田信長の家臣・愛智拾阿弥は義成の子孫を自称していたそうです。
地元ではよく知られた名字だったんでしょう。
ちなみに拾阿弥は「日頃の態度がアレすぎて前田利家にブッコロされてしまい、それが原因で利家は一時期、信長に織田家を追い出されていた」というエピソードで知られている人です。
こういう数百年越しの繋がり(暫定)ってワクワクしますね。
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せめて範頼だけでも生き残っていれば、頼家や実朝の味方になっていたかもしれません。
義経には娘がいましたので、排除される前に頼朝と和解できていれば、頼家か実朝、あるいは彼らの子供と縁戚になっていた可能性もありでしょう。
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義経は政治力の欠如が不安で仕方ないですが、味方が全くいないよりは……。
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