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【鎌倉時代(鎌倉幕府)】
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なぜ勝てた? 単なる神風ではなく……
かつては「二度の侵攻に対し、神様が日本に味方してくれて神風が吹いたので、元を追い払うことができた」なんて説明で終わってしまっていました。
が、今日ではさまざまな要因あっての勝利だという流れで話されることが多くなってきています。
それぞれの詳細は以下の記事にございますので、ここでは箇条書きで簡単に確認しておきましょう。
要は、騎馬上の元軍がどんだけ強くても「天の時、地の利、人の和」が揃わなければ戦争には勝てないという、大原則がうかがえます。
元寇「文永の役・弘安の役」は実際どんな戦いだった?神風は本当に吹いたのか
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しかし、なんとか元を撃退した鎌倉幕府にも、新たな問題が発生します。
恩賞です。
そもそも武士は「武力を示したら対価を得られる」という原理で動いています。
前九年の役・後三年の役をキッカケに、源氏が東国で支持を受けるようになったのは、源氏側が身銭を切って兵に報酬を払ったからです。
前九年の役で台頭する源氏! 源頼義と源義家の親子が東北で足場を固める
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承久の乱のときも、頼朝が御家人たちの所領=収入を保証したからこそ、朝廷軍相手に勝利を収めることができています。
そして元寇。
一部とはいえ、巨大国家の大軍を追い返したのですから、御家人たちだって
「きっと今度も土地か何か、たくさん恩賞をもらえるに違いない!」
と期待するのは、ごく自然なことでしょう。
しかし、これまでの戦と元寇とでは、全く異なる点が一つあります。
そもそも恩賞とは「敵からぶんどったものを味方に分け与える」というものです。今回は、それがない。
当たり前です。
「外国からの侵攻軍を防ぐ」戦いであり、無い袖は振れないわけで。幕府が与えたくても与えられるものがないのです。
それなら現物支給なり官職の斡旋なりをしても良かった気はしますが、御家人たちが納得するかどうかは別問題ですしね……。
【第三次元寇】への懸念もあり
さらに、当時の状況では【第三次元寇】への懸念もありました。
幕府としても、元の動きを監視・対応するための見張り役を設置し続けなければなりません。
元寇の戦費同様、その警備費用も担当の御家人持ち。こういった流れにより、御家人の多くが経済的に困窮し、借金がどんどん膨らんでいきます。
幕府にも御家人と貸し手両方の不満が届くようになりました。
これに対する幕府の対応がまたマズイ。
【徳政令】という借金帳消し令を出し、御家人が担保にした領地を無理やり取り戻させようとしたのです。
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しかし、鎌倉時代になって以降、一つの家の中で分割相続が進み続けた結果、そもそも一人あたりの所領が少なくなっていました。
そのため、徳政令で領地を取り戻しても、戦費や警固役の費用をまかなうには足りません。
また、同時期に北条氏が御家人よりも御内人(北条氏に個人的に仕えている者)を重用するようになったため、御家人の不満はうなぎのぼりでした。
なぜ、このタイミングでさらに不満を煽るようなことをしたのやら……。
実力行使に出る者も現れ始めます。
近畿では【悪党】と呼ばれる勢力が、幕府に反抗的な言動をし始めました。
字面が少々ややこしいですが、この悪党は道義的な悪ではなく、幕府に反抗的な武士のことです。
楠木正成などが悪党出身として有名でしょう。
そしてこの動きを京で見ていたのが後醍醐天皇です。
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いわゆる討幕の本格化ですね。
かくして新田義貞に滅ぼされ
「後醍醐天皇が主導して幕府を滅ぼした」というよりも「御家人たちが幕府と北条氏を見限って挙兵したところに、後醍醐天皇が乗っかった」というほうが正しい説明になりましょうか。
次の室町幕府を開いたのが足利尊氏なので、幕府を倒したのも尊氏……と思いがちですが、直接幕府を滅ぼしたのは新田義貞です。
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義貞も、確かに源氏の血を引く家の一人です。
が、領地が鎌倉から遠かったせいか冷遇されまくっており、名前を間違えられたことまでありました。そりゃあ倒幕にも気合が入るってもんです。
一方、尊氏は源氏の名門とみなされており、悪党などの討伐のため近畿へ出兵しました。
そして幕府を見限って、京都にあった鎌倉幕府の出向機関・六波羅探題を攻めています。
その後、後醍醐天皇の大ポカこと【建武の新政】をきっかけとする混乱で、義貞や正成が命を落とします。
最終的な勝者はやはり、室町幕府を開いた足利尊氏ということになりますが、彼は彼で身内に火種を残して【観応の擾乱】という内乱を招き、のっけから不穏な雰囲気で室町時代が始まることになります。
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鎌倉時代辺りから同時進行していたり、血縁関係や前後事情がややこしい事柄が増えてきたり、問題が数世代に渡って持ち越されていることが増えてきます。
また、文化や宗教などの項目も多く、こんがらがりやすいですよね。
歴史嫌いになるターニングポイントでもありますが、別記事にてゆっくりざっくり見てまいりましょう。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典「鎌倉幕府」「鎌倉時代」
鎌倉時代/wikipedia
鎌倉幕府/wikipedia