北条貞時

北条貞時/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

北条貞時と永仁の徳政令~戦乱で凹んだ御家人たちは借金チャラで救えるのか

◆1274年文永の役

◆1281年弘安の役

2度にわたる「元寇」で、危機を乗り切った鎌倉幕府

日本側のダメージも決して小さくなく、こんなとき最も頼りとなるのが「トップの手腕」でしょう。

皇族から迎えていた将軍様(当時は惟康親王)はお飾りでしたから、問われるのは当然北条氏です。

今回は、文永8年(1272年)12月12日に生まれ、元寇後の実質的な長であった、第九代執権・北条貞時の生涯と永仁の徳政令を見て参ります。

永仁の徳政令を施行した9代執権・北条貞時/Wikipediaより引用

 


数え7歳で元服 烏帽子親は惟康親王か

貞時は、八代執権・時宗の嫡男として文永八年(1271年)に生誕。

二度目の元寇【文永の役】の三年前です。

蒙古襲来絵詞/wikipediaより引用

おそらく、貞時が物心ついた頃、時宗は仕事に忙殺されていたでしょう。

元服は建治三年(1277年)、数えで7才とかなり早めでした。

もしかすると時宗が、このあたりから自分の健康に不安を感じていたのかもしれません。他に子供がいませんでしたし、おそらくや側室を抱えるような余裕もなかったでしょう。

となると、さっさと貞時を元服させて

「次はコイツが当主だから! 逆らうヤツはわかってんよな!!」(超訳)

と意思表示をしておいたほうがよさそうです。むろん、だからといって万全でもないのが、中世~近世の恐ろしさですが……。

このころ『吾妻鏡』の記述が途絶えてしまい、貞時の元服式の様子や、烏帽子親が誰だったかについてハッキリしていません。

数少ない記録に「出御」などの単語が見られることから、少なくともときの将軍・惟康親王が出席していたのは間違いなさそうです。

その場合、慣例に従って惟康親王が烏帽子親と考えられるのですが……すると今度は、偏諱(一字を貰うこと)がないのが不思議な気もします。

「時」は北条氏の通字だからいいとして、「貞」の字はどこから来たのかよくわかりません。

同時代の人物、かつ目上の立場に「貞」がつく人物はいないため、謎が深まる一方。

一説には、北条氏の祖先とされる平貞盛から取ったともいわれています。

 


父の時宗は34才で他界してしまう

「貞」の字そのものには「節操があり正しいこと」とか「占いで神意をうかがう」などの意味があり、基本的には良い意味となります。

この時代に関係することだと、貞永式目(御成敗式目)の「貞」もそうですね。

あるいは、鎌倉時代の刀工に「貞次」という人物がいます。

ただ、全体的に見て『この時代の武士には、あまり似つかわしくない字だなぁ』という印象もあります。

これは私見ですが、時宗が息子に「(貞永)式目をよく守り、常に節度を保ち、執権をきちんと勤め上げられるように」という願いを込めて名付けしたのでは? なんて気もします。

今も昔も、親が子供に期待や祈りを込めて名前をつけるのは変わりませんものね。

北条時宗/wikipediaより引用

しかし、時宗はその結果を見ることなく、貞時満12歳のときに亡くなってしまいます。

弘安七年(1284年)のことで、貞時は無事に第九代執権となりました。

後ろ盾としては、貞時の外祖父である安達泰盛がいましたが、他に頼れる親族のいないのが辛いところ。「幼い」というだけで侮られるものです。

と思ったら、実際、貞時が執権に就いてわずか四ヶ月後に、一門の北条時光(ときみつ)が興福寺の僧侶と何やら企んでバレ、拷問の末に佐渡へ流罪――という事件が起きています。幸先が悪いなぁ。

また、数少ない味方である泰盛も、得宗家の勢力を削減して御家人らの既得権益を犯し、幕府の中で孤立。

このとき泰盛の行った施策は「弘安徳政(こうあん の とくせい)」と呼ばれているのですが、その中で九州の武士に対する統率を強めようとしたことも、やはり内外の反発を招きます。

結果、北条貞時の乳母の夫・平頼綱(得宗家執事)をはじめとした、反安達勢力との対立が激化してしまいました。

戦争が終わったばかりなのに、なんでまた仲間割れしてしまうん?

 


貞時様のために、泰盛とその一派をブッコロス

北条貞時を補佐すべき、執権の女房役・連署は、北条業時(ほうじょうなりとき)という人でした。

一瞬、北条義時(よしとき)にも見えてしまいますが、違いますよ。

業時は、安達泰盛と義理の兄弟でしたが、このころ彼の勢力はさほど強くありません。

安達泰盛/Wikipediaより引用

なんだかややこしくなってきましたね。

対立の構造を図式化してみましょう。

【対立してる人たち】

安達泰盛&御家人
vs
平頼綱&御内人(幕府ではなく北条氏に仕えている武士)

 

【半ば蚊帳の外】

北条貞時&北条業時

みたいな感じです。

そして弘安八年(1285年)11月。ついに頼綱が実力行使に出ます。

「貞時様のために、泰盛とその一派をブッコロスべき!!」

計画し、実行してしまったのです。

元寇直後に何やってんすか……。

 

霜月騒動

どうやら、泰盛が貞時の邸(やしき)に出仕したところを、頼綱の手勢が取り囲んだことにより戦闘が始まったようで。

最終的に泰盛と、その嫡子である宗景をはじめとした、安達氏のほとんどが自害または討死してしまいます。

平頼綱&北条一派の圧勝!

これを【霜月騒動】といいます。

なんだか、遡ること約40年前に起こった【宝治合戦】のツケを払わされたかのようですよね。

宝治合戦については以下の記事をご参照ください。

宝治合戦
三浦までもが北条に滅ぼされた宝治合戦が壮絶~鎌倉殿の13人その後の重大事件

続きを見る

時期的には、弘安の役が終わり、時宗が亡くなった翌年の話なんですよね。おそらく時宗は成仏できてな……まぁ現代までにはできてるかな。

余談ですが、このとき貞時の邸も戦火に巻き込まれたとか。

上記の通り、平頼綱は北条氏に仕えている人で、主人の家を焼くことにためらいはなかったのか?という……やっぱり、中世、怖いよ、中世。

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