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【鎌倉時代(鎌倉幕府)】
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北条氏から執権が誕生 得宗とは違います
ともかく北条氏の手腕は凄まじく、同時進行でどんどん権力を強めていきます。
その極めつけが北条義時。言わずもがな『鎌倉殿の13人』の主人公ですね。
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頼朝の義弟にあたる義時は、公文所と侍所の別当(長官)を兼任するようになりました。
公文所は政治の中枢機関であり、侍所は御家人を管理するところですから
・政治
・軍隊
を統括したようなものです。
これを【執権】といいます。鎌倉時代おなじみの用語でしょう。
一方、北条氏の“当主”のことを【得宗】といいます。
時代によって得宗と執権を兼ねる人もあれば、そうでないこともあったので、なかなかややこしいところですね。
というか、です。こんな疑問が湧いてきませんか?
『もうさぁ、北条氏が将軍になっちゃえばいいじゃん!』と。
これが身分制度等の面白いところと申しましょうか。北条氏も確かに平氏の血を引いていますが(真偽の怪しい部分もあり)、直接将軍の座につくには功績や身分が足りなかったのです。
しかし、幕府のカタチを維持するためには【征夷大将軍】が必要です。そこでこんな意見が出ました。
【摂関家の高貴な血を引く人に将軍をやってもらえばいいんじゃね?】
運のいい(?)ことに、このころ頼朝の同母妹である坊門姫が、藤原北家の流れを汲む一条家に嫁いでいました。
坊門姫のひ孫である藤原頼経が四代将軍として迎えられ、幕府の形は続くことになります。
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ちなみに、彼は数え年で2歳。つまり実年齢ではたったの1歳です。
どう見ても傀儡、本当にありがとうございました。
頼朝の妻・政子が喝っ!
そんな幕府を見て「今なら潰せるんじゃね?」と考えたのが、後鳥羽上皇でした。
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トップが優れた政治家である頼朝や、その正当な後継者である頼家・実朝だった頃よりは、相手が乳幼児の方が戦いやすいですもんね。
承久三年(1221年)、後鳥羽上皇は兵を集めて立ち上がりました。
いわゆる【承久の乱】の始まりです。
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この後鳥羽上皇は、莫大な荘園を有するなど、経済的基盤だけであるばかりか、自身の武力も高く、おとなしくて礼儀正しい皇族イメージとは真逆な人物でもあります。
それだけに鎌倉幕府の御家人たちは右往左往。
頼朝の時代は、場合によって皇族を敵に回すこともありましたが、この頃の多くの関東武士はそんな経験はありません。
すごく乱暴にいえば、当時の武士にとって上皇の名はドラマ水戸黄門様の印籠みたいなものです。
おまけに北条氏の台頭によって危機感を抱く、他の有力御家人たちが後鳥羽上皇の下についたため、他の多くの一般御家人たちが怖気づくのも無理ないことでした。
そこで頼朝の妻・北条政子が喝っ!
「日々の生活にも困るような状態から、今のように安定した暮らしができるようになったのは、頼朝殿がお前たちの領地を認めてくれたからではないか! 今こそ、その恩に報いるときでしょう! 相手が上皇様とはいえ、何をモタモタしているのですか!」
御家人たちに向かって、そんな風に演説したとされます(実際に声にしたのは安達景盛という武将)。
武士の成り立ちには色々あります。
源氏や平家のように、皇室の末裔として、あるいは藤原氏の血を引くなどによって、ある程度の世間的立場を持っていた家はかなり稀なケースです。
御家人たちの多くは、戦のないときは武芸を磨きながら自らも畑仕事をする、半士半農の生活を送っていました。
彼らの殆どは、自分の家の周りに畑を作り、敵に攻められたら防御し、戦が終わればまたクワを手に取る……そんな暮らし。
中央政府が地方の統治をほぼ放棄していたために、「獲ったもん勝ち」状態がスタンダードでした。
現代でも「その日暮らし」なんて言葉がありますが、当時の武士たちはそこに自分や家族の命が関わってくるわけです。
それが頼朝によって変わりました。
源平の戦い(治承・寿永の乱)で功績を立てた者を中心に、戦功に応じて頼朝が領地を安堵(保証)したおかげで、多くの武士は「命や土地の係争」の心配をせずに生活できるようになりました。
政子はそれを改めて認識させ、御家人たちの良心と団結力を引き出したわけです。
かくして幕府の権限が広がった
こうして士気が激増した御家人たちは、見事に上皇軍を撃破。
日本史上でも珍しい「官軍(朝廷軍)の敗北」となります。
そもそも朝廷の軍と国内にあるその他の軍がぶつかりあうこと自体、日本史ではごくわずかなんですけれども。
ともかくこの結果を受け、それまで別個の政治的組織だった朝廷と幕府の関係が変化しました。
幕府が堂々と朝廷に口を出せるようになってしまったのです。
首謀者である後鳥羽上皇は隠岐、その第三子であり協力者だった順徳天皇は佐渡に流罪と決まりました。
順徳天皇はなぜ佐渡へ流されたのか?父と共に承久の乱で幕府に敗れたその結末
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後鳥羽上皇の長子だった土御門上皇は、承久の乱に関与していませんでしたが、
「父と弟が流されたのに、自分だけのうのうと都にはいられない」
と自ら幕府に申し出ています。
幕府としても、無関係の皇族まで罰するつもりはありません。
しかし、土御門上皇自身の希望ということもあり、遠隔地ではなく、比較的京に近い土佐への流刑になりました。
数年後には、さらに都に近い阿波へ配流先を変更し、御所を作るなど、ある程度の配慮を見せています。
同じ兄弟で随分な差ですが、元々土御門上皇と順徳天皇は異母兄弟で、生まれつき性格が正反対だったようです。
土御門上皇は父である後鳥羽上皇から見ても「コイツおとなしすぎて政治に向かなさそう」だったらしく、そのために順徳天皇へ譲位するよう迫られた……なんて経緯がありました。
皇室内の家族関係もなかなか大変ですね。
御成敗式目
そんなこんなで時が流れ、義時の子・北条泰時の時代になると、法律や制度が安定していきます。
10名の有力御家人による合議制「評定衆」や、貞永元年(1232年)に定められた【御成敗式目】などです。
北条泰時~人格者として称えられた三代執権の生涯~父の義時とは何が違ったのか
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特に御成敗式目は、室町幕府・江戸幕府の時代にも「武家の基本的なルール」として長く用いられていきます。
御成敗式目で【女性の御家人】を認めていたために、戦国時代に立花誾千代や淀殿が城主になれた……なんてのが一例です。
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ちなみに、武家の慣習として有名な「喧嘩両成敗」は、室町時代以降の習慣だそうです。へぇへぇへぇ。
さらに、泰時のひ孫である北条時頼は、有力御家人の一人で反抗的だった三浦泰村を宝治合戦で滅ぼし、北条氏の立場を確固たるものとしました。
北条時頼(義時の曾孫)五代目執権に訪れた難局~三浦一族を倒して北条体制を強化
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恐怖政治ともいえそうな物騒な手段ではありますが、当時は力でねじ伏せる以外の選択肢がなかった……ともとれますね。
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