源実朝の暗殺で、将軍の血筋が途絶えた――。
そんな大事件も北条氏の主導により、どうにか鎮静化させた鎌倉幕府。
北条義時とは打って変わって人道派の息子・北条泰時が三代目執権に就くと、政権運営は良い方向に進みつつありました。
いわば『アフター鎌倉殿の13人』の世界ですね。
しかしその後、泰時の息子である四代執権・北条経時の体調不良などで、やや不穏な空気が漂い始めます。
このあたりから執権の寿命が縮む傾向があり、そのせいで執権や得宗(北条氏本家の当主)の継承順序がややこしくなっていくのです。
さらには北条と三浦の対立も勃発。
今回の主役である五代執権・北条時頼は、そうしたトラブルに直面しながら、全体的には最善の方針をとっていた人と言えるでしょうか。

北条時頼/wikipediaより引用
弘長3年(1263年)11月22日は、そんな時頼の命日――彼の生い立ちと共に、当時の政治の移り変わりを見てまいりましょう。
祖父・泰時に育てられ、息子には元寇の時宗も
北条時頼は、北条時氏の次男として生まれました。
父・時氏は三代執権・泰時の息子で、当時は六波羅探題を務めていたため、時頼も京都生まれです。
時頼三歳のときに時氏が六波羅探題を離任することになり、一家揃って鎌倉に戻ってきました。

北条時氏/wikipediaより引用
しかし、鎌倉に戻ってから二ヶ月程度で時氏が亡くなるという不幸が降りかかり、祖父である泰時が時頼を養育します。
おそらく時頼は、父親の顔をほとんど覚えていなかったでしょう……。
一方、母親の松下禅尼は、元寇の頃まで存命だったようなので、深く関わっていたと思われます。
母子の間に際立った逸話はありませんが、松下禅尼の家で彼女にとって孫に当たる北条時宗(八代執権・元寇のときの人)が生まれているので、良好な関係だったと考えて良さそうです。
つまり、時宗は今回の主役・時頼の息子ってワケですね。
話が飛んでしまったので、元に戻しまして……。
時頼は満10歳で元服。
このとき鎌倉幕府将軍である藤原頼経から「頼」の字を賜りました。
普通こういうときって賜った字を一字目にするのが礼儀というか作法というか、お約束なんですが……北条氏の通字である「時」が先に来ているあたり、何となく当時の情勢がうかがえます。
元服と同じ年には、泰時の意向により、時頼が鶴岡八幡宮で流鏑馬を披露したそうです。

鶴岡八幡宮の流鏑馬/Wikipediaより引用
幼い頃から聡明で、祖父・泰時にもその才能を高く評価されていた……という「ジーちゃんに育てられた武士あるある」な評価が確定していたのでしょうね。
18才で執権に 直後に兄・経時は亡くなった
結婚は12歳のときで、お相手は大江広元の四男・毛利季光(すえみつ)の娘でした。
毛利季光は、あの戦国大名・毛利元就のご先祖さまとして知られますね。
広元は幕府草創期の功臣ですから、執権の正室としてはまあ妥当なところです……が、これが後々火種の一つにもなります。

大江広元/Wikipediaより引用
ただ、このときは、もっと喫緊の問題がありまして。
頼時の兄・経時が、寛元3年(1245年)あたりから体調を崩していたのです。
そのため、まだ10代の時頼が仕事を代行するようになったのです。
経時は生まれつき病弱というわけでもなさそうなので、執権という職務の過酷ぶりから、寿命を縮めてしまったのだろうと考えられています
一時は持ち直したものの、まだ15歳だった正室に先立たれるなどの精神的負担によって、悪化と回復の波が激しくなっていました。
時頼はこの年、まだ18歳です。
幼いというわけではありませんが、幕政を主導したり、御家人たちをまとめ上げるにはやや不安が残ります。
それでも、経時の体調の不安定さよりはマシと考えられたようで、経時の存命中に執権職の継承が図られました。
寛元四年(1246年)3月には、経時から直接「出家するつもりだ」と伝えられ、ほぼ同時期に時頼が執権職を継ぐことになります。
同年閏4月に経時が亡くなっているので、これは地味ながら英断といえるでしょう。
せめて経時最期の2ヶ月程度だけでも、心安らかに過ごせたことを祈るばかりです。
前将軍の藤原頼経らに不穏な動きが……
代替わりがスムーズにいった――。
とはいえ二代続けて若年での執権就任は、良からぬことを考える者を生み出してしまいます。
四代将軍・藤原頼経と、北条光時(泰時の甥)です。

藤原頼経/wikipediaより引用
この頃の頼経は既に将軍職を退いており、息子の藤原頼嗣が五代将軍になっていました。
しかし、北条時頼に反抗的な御家人たちは、頼経を再び鎌倉へ迎えようと画策していたのです。
どこをどうしたものか、時頼はこの陰謀を事前に察知。
直ちに兵を使って、頼経の御所と鎌倉市中を押さえてクーデターを阻止しました。
さらに、評定衆の後藤基綱・藤原為佐・千葉秀胤・三善康持など、反抗的な有力御家人を罷免するという手際の良さです。
頼経は京都に追い返すという念の入れようでした。
これを【宮騒動】といいます。
どうでもいい話ですが、なぜ“宮”騒動と呼ぶのかは不明だそうで。
「宮」と付く場合、だいたいは皇族のことを指しますが、頼経は藤原氏であって皇族ではありません。
鎌倉時代末期の歴史書で既に宮騒動と書かれているため、それを踏襲しているという単純な理由のようです。
続いて三浦氏にも怪しい動き
頼経が藤原氏の九条家出身であったことから、処罰は九条家にも及びました。
関東申次(かんとうもうしつぎ・朝廷の役職で幕府との連絡役)を務めていた頼経の父・道家が罷免され、新たに西園寺実氏(さねうじ)を申次に任命するよう、時頼が朝廷に要求し、認めさせています。
西園寺家はこれ以降、関東申次を世襲するようになり、大いに地位を上げました。

西園寺実氏/wikipediaより引用
さらに、後嵯峨上皇の周囲でも実氏を中心とした院評定衆が創設され、朝政刷新にもなっています。
しかし、時頼にとっての不安要素はまだありました。
三浦氏一族です。
三浦氏は宮騒動に関与していなかったのですが、鎌倉のある相模国で北条氏に次ぐ勢力を持っていたことがまずひとつ。
そして、三浦泰村の弟・光村が反北条氏の筆頭であり、前将軍・頼経が京都に送り返される際、涙ながらに見送ったという点がひとつ。
三浦氏の当主・泰村には、時頼に逆らう意思はなかったようです。
また、時頼も最初から力ずくで行こうとは考えていなかったようで、泰村の次男・駒石丸を養子に迎えたりしていました。
しかし、そのころ羽虫の大量発生などの異常現象が多発し、社会不安が広がってしまいました。
古い時代のことですから、こういったことがあると「エライ人達の中に良からぬことを考えているヤツがいて、それに対して神様がお怒りなのだ!」というように捉えられたのです。
外祖父・安達景盛の強行突破!
幕府はそれらを「承久の乱で島流しになった後鳥羽上皇の怨霊が引き起こしたもの」として、鶴岡八幡宮の山嶺に怨霊を鎮める御霊社を作って収束させようとしました。
とはいえ、そうは問屋が卸しません。
これを機に三浦氏を始末したがったのが、時頼の外祖父である安達景盛という御家人です。
景盛は幕府に対してとても忠実な御家人で、これまでの御家人粛清にもたびたび関わっていました。
また、安達氏は三浦氏にひけをとらない勢力を持っていたため、三浦氏が邪魔と感じられたようです。
結果、平和的解決に進みかけた流れがぶった切られてしまいました。
ちなみに景盛は、三代将軍・源実朝の死を悼んで出家し、高野山にこもっていたのですが、それでいて幕政には口を出していた……という、わけのわからん行動をとっています。
何のために高野山行ったんだ(´・ω・`)
ともかく景盛は行動に移します。
三浦氏を始末するため、時頼が完全に納得しきらないまま軍を出動。
安達軍は若宮大路を突っ切って鶴岡八幡宮に突入し、

鶴岡八幡宮
境内を斜めに駆け抜けて泰村の館を強襲したとか。
強引な行動に、さすがの八幡神様もドン引きだったでしょう。
鶴岡八幡宮の西側には源頼朝を祀った神社があったそうですので、あの世で『この爺様、何してくれてんの!』と混乱していたのでは。
余談ですが、この頃あった頼朝の神社は明治時代に移転し、現在、白旗神社となっています。
「豊臣 秀吉が鎌倉に行った際、頼朝像の肩をポンと叩いて『ワシと貴方は天下友達よ』と言った」なんて逸話がありますが、このときの頼朝像は、おそらく安達軍が駆け抜けた頃と同じところにあったのでしょうね。
「頼朝公にお詫びして兄弟共に死ぬしかない」
閑話休題。
こうなると北条時頼も、安達景盛に同意せざるを得ず、執権御所の警備と安達軍への増援を命じます。
三浦氏のほうでもタダでやられるわけにはいきませんから、周辺にいた一族はもちろん、所領である三浦半島方面からも続々と親類縁者が駆けつけました。
火種である三浦光村はなかなかの戦略家です。
鎌倉と北条氏の所領を分断するなどして善戦しましたが、元々戦意はなかった泰村が継戦を拒否。
「かくなる上は、頼朝公にお詫びして兄弟共に死ぬしかない」
そう光村を説得し、一族や三浦氏に味方した御家人たちと共に、頼朝の法華堂(お墓)へ向かいました。
位置としては、鶴岡八幡宮の裏手です。
そして、時頼の舅でもあり、このときは出家して僧形になっていた毛利季光が念仏を唱える中、泰村・光村は頼朝への謝罪を述べ、自刃しました。
集まった人々もそれぞれ後を追い、三浦氏は滅亡同然。
女系の人が生き残って後に続いているのですが、ちょっと血縁関係がややこしいので、また機会があればご紹介します。
越後に逃れた毛利氏から後の元就が輩出される
この一連の騒動を
【三浦氏の乱】
または
【宝治合戦(ほうじかっせん)】
と言います。
※以下は「宝治合戦」の関連記事となります
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三浦まで北条に滅ぼされた宝治合戦が壮絶|鎌倉殿その後の重大事件
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季光が三浦方についたため、毛利家もほとんど滅亡同然になりました
ただし、毛利季光の四男・経光(つねみつ)がたまたま越後に行っていたために生き残り、前述の通りその子孫から毛利元就に続いています。
他の系統としては、後に上杉謙信に仕えた北条(きたじょう)氏などがいます。
こういう細かいところを味わえるのが歴史の醍醐味ですね。
ちなみに、景盛自身はその後大往生し、孫の泰盛の代に【霜月騒動】という別のゴタゴタで安達氏も滅ぼされました。
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まんが日本史ブギウギ 霜月騒動と平禅門の乱~崩壊の序曲は幕府の内から!?
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諸行無常といえば平家物語ですけれども、鎌倉時代も相当なものです。
「宝治合戦は時頼と景盛による三浦氏だまし討ちだ」なんて説もあります。
時頼の他の政策・言動からすると、そこまで独裁者というわけでもなさそうです。
例えば、宝治合戦の二年後、建長元年(1249年)12月に、訴訟の公正迅速を目的として評定衆の下に【引付衆】を付設しています。
これによって、合議制が進展したということもできるわけです。
道元ほか南宋の僧侶を鎌倉に招く
同時期には曹洞宗の開祖・道元を鎌倉に招いたといわれています。

道元/wikipediaより引用
他にも南宋の僧侶を招いたことがあるため、時頼は仏教への興味関心、あるいは信仰心が他の人より高かったのかもしれません。
宝治合戦で三浦氏を半ば以上強引に排除したため、説法を聞くことで自分の考えを整理したり、冥福を祈ったりしたのでしょうか。
もしくは、僧侶たちに感銘を受けて、この後の方針を変えた……という可能性もありますね。この頃、時頼は執権になってまだ数年目、20歳そこそこの感受性豊かな年頃ですし。
とはいえ、執権という役職は情や個人的な意思だけではやっていけません。
建長三年(1252年)12月には、勝手に出家した足利泰氏(尊氏の高祖父)の所領を没収。
さらに、謀叛の疑いで了行法師・矢作左衛門尉らを追捕処断しました。
これらの事件の背後に九条家の関与が疑われたため、五代将軍・藤原頼嗣を廃して京都に送り返しています。
時頼からすれば、「宮騒動の時は穏便に収めたのに、まだ何か企んでたのか」と思えたでしょう。
しかし、新たに将軍を据えようにも、源氏の嫡流はとっくに断絶済み。女系ながら源氏の血を引いていた九条家もダメ。
これでは、幕府という形態を続けるのも難しく思われました。
沽酒の一屋一壺制とは?
ここで白羽の矢が立ったのが、後嵯峨上皇の第一皇子・宗尊親王です。
宗尊親王は生まれ順こそ一番でしたが、母の身分が低かったため、皇位につくのは非常に困難な立場でした。
とはいえ、第一皇子を出家させるのもどうかということで、後嵯峨上皇も扱いに苦慮していたようです。なまじ愛息子だったために、余計悩んでいたようです。

後嵯峨天皇/wikipediaより引用
そこに時頼からの申し出があったので、珍しく朝幕間で利害が一致し、話がまとまりました。
まあ、この後別の問題で皇室も朝廷も幕府も大揺れするんですが……それはまた後日ということで。
他に時頼が行った政治には、三つの柱があります。
【御家人の奉公の緩和】
例:宝治元年(1247年)12月、京都大番役を六ヵ月から三ヵ月勤番に軽減
【農民保護】
例:建長三年(1252年)6月、地頭・農民間の訴訟の法を定める
【質素倹約】
例:沽酒の一屋一壺制=酒屋で酒を作る量を制限し、酒の害を減らそうとした
3つ目は、禁酒令ならぬ節酒令というところですかね。
いちいち酒屋の壺を叩き割らせてまわらせたそうで、なかなかエキセントリックですね。まぁ、決意表明のアピールという意味もあったのでしょう。
これらの政策は好意的に受け止められ、時頼の時代は善政が行われていたと評価されることが多いようです。
北条氏の得宗領(本家の領地)では「時頼が変装して自ら諸国を巡り、弱きを助け強きをくじいた」というドラマの水戸黄門のような伝説まで生まれたとか。
北条氏へのゴマすりと取れなくもないですが、当時の時頼の政治に感謝していた者も少なくなかったのでしょう。たぶん。
他に「時頼が密偵を諸国に派遣していたため、話が混同された」という説もあります。こっちのほうが現実的ですね。
「座禅を組み、阿弥陀如来像の前で息を引き取った」
このように波乱万丈だった北条時頼。
心身の摩耗もまた、早いものでした。
まず最初は、康元元年(1256年)11月に赤痢にかかっています。
現代では治療可能な病気ですが、時頼の症状はかなり重かったらしく、この時点で北条長時(三代執権・泰時の弟の家系)に執権職を譲りました。

北条長時/wikipediaより引用
その翌日には出家しているほどですから、よほどひどい状況だったのでしょう。
が、しばらくして時頼が回復したため、実権は長時から時頼に戻りました。
それから7年後の弘長三年(1263年)11月に亡くなるまでの間、時頼は実権を持ち続けています。
37歳という若さでの死でもありました。
『吾妻鏡』によれば「時頼は袈裟を纏い座禅を組み、阿弥陀如来像の前で息を引き取った」といいます。
武神である八幡神は阿弥陀如来の化身という考えもありますので、その辺からきているのか、それとも時頼が純粋に阿弥陀如来を信仰していたのか、その両方か……。
あるいは、自身のこれまでの行いを悔やんでのことか、はたまた真逆に、自分を極楽浄土へ導いてほしいという願いからなのか……どれもありそうですね。
いずれにせよ、鎌倉幕府の執権としては
「泰時ほどの聖人タイプではないが、執権・政治家としてはかなり優秀である」
といえます。
彼の息子である時宗が、元寇という未曾有の国難を乗り切れたのも、父に似たからだったのかもしれません。
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【参考】
国史大辞典「北条時頼」
北条時頼/wikipedia





