せつ(若狭局)

源平・鎌倉・室町

若狭局は頼家の嫡男一幡を産むが ドラマでも史実でも不憫すぎる最期を迎える

『鎌倉殿の13人』で源頼家の嫡男・一幡を産んだ、比企一族の女性・せつ。

山谷花純さんが演じたこの女性、史実では若狭局の名で知られます。

劇中で赤ん坊を抱いて微笑む姿は美しく、幸せの絶頂にいるかのようでしたが、その儚い生涯を知る歴史ファンは彼女の最期を思い出し、ゾッとしながら見ていたことでしょう。

初代鎌倉殿の頼朝にとっても初孫となる男児を産みながら、なぜ彼女はそんなことになってしまうのか?

鎌倉政権における比企一族は安泰ではなかったのか?

一説によると、建仁3年(1203年)11月3日は、比企の乱から逃れた彼女と頼家の息子・一幡が、北条義時の追手に殺された日とされます。

熾烈な権力闘争の結果、悲運の道を歩まされた若狭局(せつ)の生涯を振り返ってみましょう。

 


比企一族の女たち

『鎌倉殿の13人』では、草笛光子さんが演じる比企尼を頂点とした女性たちが登場します。

比企能員の妻であり、源頼家の乳母である道。

源義経の妻となった里(郷御前)。

同じく義経と引き合わされ、源範頼の妻となった女性。

一族きっての美形であり、源頼朝の目に留まり、お手つきとなることを期待されていた比奈(姫の前)。

佐藤二朗さん演じる能員が「我が一族は鼻筋が通り、目もパッチリしている」と自慢げに語っていましたね。

顔立ちや当時の美的感覚はさておき、源氏のもとへ送り込める結婚適齢期の女性が多かったことは確かでしょう。

その中に、能員の娘であるせつ(若狭局)もいました。

1979年の大河ドラマ『草燃える』では白都真理さんが演じた比企の姫。

彼女らは政治闘争の荒波に身を置くため、そう容易く平穏かつ幸せな人生を送れる環境ではなかったのです。

 


実はわからないことが多い頼家の妻妾

二代目の鎌倉殿であり、乳母にもなった源頼家に娘を引き合わせ、その寵愛を得る――。

比企能員がそうした取組を進めるのはごく自然なことですが、せつ(若狭局)が頼家にとってどんな存在であったか? そもそも頼家には何人の妻妾がいたのか?

こうした重要なことが断定できません。

源頼家/wikipediaより引用

せつは「妾」とされます。

ややこしいのは、この「妾」という表記が必ずしも「側室」、「側女」の類を意味しないことでしょう。

当時は身分が釣り合わないと「妾」とされ、例えば『鎌倉殿の13人』でもおなじみの阿野全成と実衣(阿波局)もそうでした。

たとえ正室でも、源義朝の息子に対して、田舎豪族の北条では低すぎるとして、阿波局は「妾」とされたのです。

では、せつ(若狭局)は?

頼家の妻妾関係は不明と申しましたが、彼女より身分の高い女性が記録に残されました。

公暁を産んだつつじ(辻殿)です。

母が源為朝の娘で、父が清和源氏の血を引く賀茂重長。

源氏の血を引く姫でした。

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若き頼家の側に

つつじ(辻殿)とせつ(若狭局)の両名は、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも注目されました。

「どちらを正室とするか?」

という重要な話が第25回放送で話題となり、頼朝が「比企能員に疑念を抱き、源氏の血を重んじている」ことから、つつじ(辻殿)に軍配が上がっています。

しかし、先に初孫(しかも男児)を産んだのは、せつ(若狭局)です。

この辺りの状況、史実では、どういう流れだったか?

建久4年(1193年)に遡ってみたいと思います。

この歳、頼朝らは、富士の裾野で大規模な巻狩りを実施しました。

曽我事件】とも重なった同イベント、「源頼家が二代目の鎌倉殿である」ことを示す重要なものだとされています。

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頼家は寿永元年(1182年)生まれですので、建久4年(1193年)はおそらく万寿と呼ばれていた頃(数えで12才)。

そこで跡取りであることを示したんですね。

せつ(若狭局)が頼家の子・一幡を産んだのは、その5年後の建久9年(1198年)であり、

源頼家17才

せつ(若狭局)16才

という若いカップルでした。

早婚な時代とはいえ二人とも若く、おそらく始まりは父・比企能員の思惑でしょう。

『鎌倉殿の13人』劇中でも描かれるように、自家の姫を源氏へ送り込むことにかけては、この上なく積極的な比企一族。

もしも何ごとも起こらなければ、頼家も二代目鎌倉殿になるための足場をじっくり固めることができ、その後も長く同ポジションにいられたかもしれません。

むろん現実は甘くないからこそ、そう申し上げるわけで……。

建久10年(正治元年・1199年)1月、源頼朝が急死してしまったのです。

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