織田信長と徳川家康の間で成立した「清洲同盟」は何のために結ばれ、一体いつまで続いたのか?
本能寺の変で終わりじゃないの?と思われるかもしれないが、実はその後の豊臣秀吉の動向にも影響していた、この同盟を振り返ってみよう。
清州同盟の成立時期は?
織田信長と徳川家康(松平信康)の間で結ばれた清州同盟は、互いの戦争に協力し合う軍事同盟とされる。
では、いつ成立したのか?
永禄三年(1560年)桶狭間の戦い後、すぐに結ばれた――そんな印象もあるかもしれないが、実は成立時期には諸説あり、主に以下3つの説が唱えられている。
桶狭間の戦い翌年の永禄四年(1561年)説。
織田信長の娘・五徳と徳川家康の長子・松平信康が婚約した永禄六年(1563年)説。
そして、信康と五徳が実際に婚姻を成立させた永禄十年(1567年)説である。
永禄十年(1567年)ともなれば、信長は同年8月に稲葉山城を攻略して美濃を制している年になる。
一体どの説が妥当なのか?
大河ドラマ『豊臣兄弟』では永禄五年(1562年)を成立の年としていたが、いずれにせよ同盟のような外交は織田家と徳川家の動向だけで決まるものではない。
当時の周辺勢力とはどのような関係を築いていたか、両家の外交政策も含めて考察してみよう。
織田家の動向
永禄期の尾張織田家が国境を接していたのは、西側の伊勢(北畠)、北側に美濃(斎藤)、そして東側の三河(徳川)となる。
このうち美濃とは正妻・帰蝶と斎藤道三を通じて良好な関係が保たれていたが、弘治二年(1556年)4月、道三が長良川の戦いに敗死して、息子の斎藤義龍が完全支配すると、一気に関係が悪化。
尾張の中にも斎藤義龍と手を組み、信長の排除を企む者がいた。
そこで大きな転換となったのが、やはり永禄三年(1560年)桶狭間の戦いである。
今川義元の首を取り、尾張の内外で一気に名声を高めた信長は、美濃への侵攻に乗り出しながら、同時に尾張の統一も進めていく。
そのために、まず永禄六年(1563年)に本拠地を小牧山城へ移転。

翌永禄七年(1564年)には、美濃との国境沿いにある犬山城の織田信清を制してついに尾張統一を果たす。
それまでに徳川家康と清州同盟を結んでいてもおかしくない状況に見えるが、家康は、永禄六年(1563年)9月~永禄七年(1564年)春まで三河一向一揆の鎮圧に手を焼いていた。
信長にとって東側(三河)からの差し迫った脅威はなく、織田家は美濃侵攻に打ち込める。
そんな余裕からか、信長は、永禄八年(1565年)に流浪の身となっていた足利義昭の上洛に協力する旨も申し出ていた。
ただし、織田家にとっては武田家との外交のほうが重要だったであろう。
武田家と二重の姻戚関係
武田家との領土接近に備え、永禄八年(1565年)11月に姪の龍勝院を養女として武田勝頼に嫁がせ、武田家と縁戚関係を結んだ。
2年後の永禄十年(1567年)11月には、龍勝院と勝頼の間に長子の武田信勝が誕生し、両家の関係は順風満帆。
しかもその上で永禄十年(1567年)12月、信長の嫡子・織田信忠と信玄五女・松姫の婚約も決め、織田と武田は二重の縁を結んだ。
織田軍が稲葉山城を落として美濃を制したのは、その4ヶ月前、同年8月のことだった。
なぜ信長は、武田と二重の縁を結んだのか?
まず、自身の東美濃領と武田の支配域が接していることに加え、三河の家康では信玄に対して力不足だと感じていたのではないか、とも指摘される。
なお、4年前に約束した信長と義昭の上洛は、結局、永禄十一年(1568年)にまで先送りにされた。
信玄との関係性を考えると、家康との清州同盟は、非常に重要ではありながら攻め込まれる危険性は低い、要は逼迫した状況ではないことも浮かんでくる。
永禄四年説も、永禄十年説もあり得る状況だろう。
一方、当時の徳川家康はどんな動きをしていたか。
徳川家康は桶狭間の戦い後に独立へ
桶狭間の戦いが勃発した永禄三年(1560年)以降の徳川家康はどう動いたのか。
専門家の間でも見解が分かれ、従来は以下のように考えられていた。
・桶狭間の戦いの後も家康はしばらく今川方として動き、織田方の城を攻めていた
・永禄四年4月以降、今川領への派兵や西三河の武将の取り込みなどを開始し、明確に反今川の姿勢を表した
しかし近年では、永禄三年(1560年)桶狭間の戦いの後から、家康は今川方と戦闘を開始していたという説が浮上。
参考にしたいのが北条氏康の書状だ。

北条氏康/wikipediaより引用
年次は不明ながら5月朔日付に、次のようなことが記されている。
「織田を放置して昨年から徳川と今川が争っていることは無益である」
「三条西実枝が『この和議については将軍(足利義輝)が御内書を下す』と話していた」
北条氏康は今川を支えていたので、徳川と今川が争うことは好ましくなかった。
ゆえに「両者の争いは無益である」と警告したのだ。
詳細は省くが、この書状から察するに、徳川が独立のための戦いを始めたのは桶狭間の戦い後だとうかがえる。
そんな家康からすると、清洲同盟の成立時期は永禄四・六・十年のいずれであっても不都合はなく、むしろ早い段階での成立を望んでいただろう。
特に、三河一向一揆が起きていたときは、今川勢に攻め込まれたら滅亡させられてもおかしくない状況だっただけに、信長の援軍は欲しかったはず。
清洲同盟:同盟から従属へ
開始時期の定まらない清洲同盟ではあるが、その後は強固に継続した。
浅井朝倉との姉川の戦い、武田信玄との三方ヶ原の戦い、武田勝頼との長篠の戦い、など。
家康はまるで家臣のような扱いにも見えるし、実際、徐々に同盟は形骸化し、家康が信長に従属していったと語られることも多い。
時代が下ると、信長の書状で家康を臣下扱いしていることや、天正七年(1579年)に起きた松平信康事件もそうした見方を後押ししているのだろう。
しかし確定的なことがついに起きる。
天正十年(1582年)の甲州征伐である。
同年2月に織田・徳川・北条軍が一斉に武田領へ進軍し、わずか1ヶ月少々で武田勝頼を滅亡させると、このとき家康は信長から駿河を与えられているのだ。
家康にとっては、たとえ屈辱的でも、圧倒的国力の差を前に頷くしかなかったであろう。
なんせ本州で織田軍とまともに対峙できる強国は毛利、上杉、北条ぐらい。
それにしたって、織田軍の家臣たちに任せた各方面軍で対応できる状況であり、彼らの攻略は時間の問題とも言えた。
だからこそ信長も、甲州征伐後に家康を安土城へ招待し、歓待する余裕があったのだろう。
では、そんな清州同盟はいつまで続いたのか?
本能寺の変で終わったのか?
本能寺の変で終わったのか?
先に考えておきたいのが、織田信長が天下人になったと言える時期だ。
長篠の戦いで武田勝頼を破り、越前を平定した天正三年(1575年)、朝廷から従三位権大納言右近衛大将を任ぜられたときが天下人に認定された時期と言える。
以降、織田政権は確実に勢力を広げ、清州同盟も続いた。
では、あらためて「同盟はいつまで続いたのか?」という点を見てみよう。
「本能寺の変」で信長が亡くなった時点で終了――ではなく、実はその後も形式的には継続していたと言える。
織田政権は、本能寺の変で終わったわけではない。
その後の清須会議で織田政権の体制維持が話し合われ、紆余曲折を経て織田家を率いる立場となった織田信雄が、天正十二年(1584年)小牧・長久手の戦いで秀吉に和睦という名の屈服。
まさにこのとき織田政権は完全に瓦解した。
織田信雄が秀吉から領地を与えられるというカタチで臣下の立場になり、清州同盟も消え去ったのだ。

織田信雄/wikipediaより引用
仮に、桶狭間の戦い翌年の永禄四年(1562年)に成立したとすると、22年も続いたこの同盟。
長きに渡って耐え抜いた家康の胆力に凄みを感じる。
参考書籍
平山優『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』(2024年12月 KADOKAWA)
池上裕子『織田信長 (人物叢書)』(2012年12月 吉川弘文館)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線』(2014年10月 洋泉社)
太田牛一/中川太古『信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)
藤井讓治『徳川家康 (人物叢書 新装版)』(2020年1月 吉川弘文館)
黒田基樹『徳川家康の最新研究 伝説化された「天下人」の虚構をはぎ取る』(2023年3月 朝日新聞出版)
【TOP画像】織田信長と徳川家康/wikipediaより引用
