元和九年(1623年)8月4日は黒田長政の命日です。
ご存知、黒田官兵衛の嫡男で、福岡藩の初代藩主。
2014年の大河ドラマ『軍師官兵衛』では松坂桃李さんの熱演が話題となりましたが、やはり戦国武将としての知名度であれば秀吉の側近だった父の官兵衛には絶対にかなわないでしょう。
だからといって長政が無能だという評価もほとんど耳にしません。
要はその活躍にスポットが当てられにくいだけで、特に関ヶ原の戦いでは東軍の勝利に大きく貢献したとも言える武功を挙げています。
本記事で、そんな黒田長政の生涯を振り返ってみましょう。

黒田長政/wikipediaより引用
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生い立ち
長政は永禄十一年(1568年)12月3日、播磨国飾東郡姫路(兵庫県姫路市)で生まれました。
この世代になると、戦国大名としてはかなり若めの部類。
戦場での活躍もさることながら、江戸時代初期の政争を生き抜く能力が求められた時代でもあります。
長政の場合、早いうちから嫌でも政争については意識せざるを得なかったでしょう。
天正五年(1577年)に父の黒田官兵衛(孝高)が織田信長に従った際、人質に出されて秀吉の手元に置かれることになったのです。
これだけなら当時の武家としてはよくある話ですが、長政(当時は松寿丸)はさらに苦難を経験します。
天正六年(1578年)、織田家から離反して有岡城に籠もる荒木村重を説得するため、父の官兵衛が単身で乗り込むと、そのまま戻ってきませんでした。
「村重のみならずあやつも寝返ったか!」
そう考えた信長は、見せしめとして人質の松寿丸を殺せと秀吉に命じます。
松寿丸、絶体絶命の危機で、その命を救ったのが竹中半兵衛(重治)です。

竹中半兵衛/wikipediaより引用
半兵衛が機転を利かせて松寿丸を匿い、配下の家で保護することにしました。
松寿丸は10歳になる頃ですから、元服を意識するような歳でもあり、自分の立場も理解できたでしょうから、さぞかし肝が冷えたはず。
官兵衛は有岡城に軟禁されていたのであり、その後、救出されて疑いが晴れると、松寿丸こと長政も父のもとへ返されました。
九州から朝鮮半島へ
黒田長政は、本能寺の変が起きる少し前あたりから秀吉軍に参加。
一貫して秀吉方として動き続けます。
天正十一年(1583年)【賤ヶ岳の戦い】では戦功を認められ、父とは別に河内で450石の領地をもらいました。
また、天正十二年(1584年)【小牧・長久手の戦い】では、現地から離れた岸和田城で、中村一氏らと共に根来衆や雑賀衆らの攻撃を防ぎ、これも認められて2000石加増されています。
九州との縁ができたのは九州征伐からです。
父の官兵衛と共に秀吉の弟・豊臣秀長の軍に加わると、戦後、知行の割り振りで黒田家に豊前が与えられました。
国替えによって国衆の一揆も起きますが、無事これを退けると、天正十七年(1589年)、父から家督と領地を受け継ぎます。
その間、秀吉の親友だった蜂須賀正勝(小六)の娘・糸姫を正室に迎えたようです。

蜂須賀正勝/wikipediaより引用
秀吉からすると、信頼する知恵者・官兵衛と親友・小六の子供同士が結婚したという構図になります。
確かにこの時点で秀吉には跡取りとなる子はいません。
それでも次世代に向け忠実に仕えてくれる家を固めておきたかったのでしょう。
長政は、糸姫との間に娘一人しか授かっていません。彼女の体質がそうだったのか、夫婦仲がよくなかったのか……。
他の女性との間には数名の子に恵まれています。
文禄・慶長の役では渡海した大名としなかった大名に分かれますが、長政は前者の一員でした。
文禄元年(1592年)に大友義統と同じ第三軍として渡り、半島で連戦。
小西行長に救援を求められてからは小早川隆景らと共に向かい、激戦として知られる碧蹄館の戦いで明軍を破りました。
その後、和議が成立すると文禄三年(1594年)に一旦帰国しましたが、結局、交渉は決裂したため慶長二年(1597年)に再び渡海。
このときも各地を転戦しています。
しかし経過が良くなかったため、これまた激戦だった蔚山城の戦いの時点で、長政をはじめとした現地の諸将は戦線の縮小を提案しました。
秀吉はこれに激怒!
現地で軍目付をしていたのが石田三成の親族だったため、朝鮮半島に渡っていた大名の多くが三成に反感を持つキッカケになったとされます。
関ヶ原前夜
慶長三年(1598年)8月に秀吉が死亡。
豊臣政権は朝鮮半島からの撤退を余儀なくされ、長政たちも同年11月に帰国します。
三成と長政らの不仲は長く尾を引きました。
不仲になった黒田長政たちと石田三成の仲裁役を担っていた前田利家です。
秀吉から幼い豊臣秀頼の守役を任されていた利家。

前田利家/wikipediaより引用
家康にも対抗できる豊臣政権の重鎮ですが、その利家も年齢には勝てず、慶長4年(1599年)閏3月に亡くなります。
その直後のことでした。長政らによって三成が襲撃される【石田三成襲撃事件】が起きます。
襲撃した側の顔ぶれについては諸説ありますが、どちらにしても長政は参加していますから、彼らの不仲は公然と知られていたわけですね。
そこにつけ込んだのが徳川家康。
豊臣政権の内紛を千載一遇の好機と考えたのでしょう。
三成に国元へ帰るようにすすめると、家康は「蔚山城の戦いにおける現地諸将の言い分はもっともなことだ」としました。
家康も三成も朝鮮には行っていません。
本来なら互角の立場のはずですが、家康のほうから言葉巧みに自分たちに味方してくれるとあれば、徳川に好感を持つのはごく自然のことでしょう。
しかも家康は広大な領地や家臣団を擁する圧倒的実力者。

徳川家康/wikipediaより引用
長政も家康に接近する道を選び、糸姫を離縁すると、慶長五年(1600年)6月に家康の養女・栄姫を二度目の正室に迎えています。
後に家督を譲る黒田忠之は、栄姫との間に生まれた男子です。
当時の大名たちにとって、
自分の家が残ること>>>>>豊臣家への忠義
という図式は当たり前ですから、長政もそう判断したのでしょう。
そんな状況の最中、ついに家康が動きます。
上杉討伐を決定したのです。
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