明治30年(1897年)8月4日は後藤象二郎の命日です。
土佐藩士出身であり、坂本龍馬と共に語られることも多い方ですが、それとは別に象徴的なニュースがNHKで流されました。
英国ビクトリア女王から贈呈されたサーベルが都内で発見されたのです。
◆英女王が土佐藩士 後藤象二郎に贈呈のサーベル 都内で見つかる(→link)/2023年5月 NHK WEB
黄金色の豪華な装飾が施されたサーベルがなぜ象二郎に?
というと【パークス襲撃事件】で英国公使を守った功績が称えられてのことで、刀身には
TO GOTO.SHOJIRO THE 23nd OF MARCH 1868
と彫り込まれていました。
1868年といえば前年の大政奉還を受けて、1月から戊辰戦争が始まった激動の年であります。
そんな重要局面で英国公使ハリー・パークスの護衛を任されていた後藤象二郎とは一体何者なのか。
実は、坂本龍馬をもしのぐスケールの人物ではなかったか?とも評される象二郎の生涯を振り返ってみましょう。

後藤象二郎/wikipediaより引用
東洋に育てられた象二郎
吉田東洋のもとで育てられると、山内容堂に重用され、武市半平太を尋問して追い詰める。
さらには坂本龍馬と意気投合し、明治以降も下野して活躍した後藤象二郎。
彼は天保9年(1838年)、後藤正晴の長男として高知城下片町に生まれました。
母は大塚勝従の長女。
同時期の人物と比べると、少しだけ若い世代と言えましょうか。
文政10年(1827年/11才上)山内容堂(本稿では“容堂”で統一)西郷隆盛
文政12年(1829年/9才上)武市半平太
文政13年(1830年/8才上)吉田東洋・吉田松陰・大久保利通
天保2年(1831年/7才上)孝明天皇
天保6年(1835年/3才上)坂本龍馬
天保8年(1837年/1才上)板垣退助、徳川慶喜
天保9年(1838年/同年)後藤象二郎・岡田以蔵・中岡慎太郎
天保10年(1839年/1才下)高杉晋作
天保11年(1840年/2才下)渋沢栄一
天保12年(1841年/3才下)伊藤博文
幼名は保弥太(やすやた)といい、一歳上の板垣退助はこの幼名から「やす」と彼を呼んでいたと言います(本稿では象二郎で統一)。
そんな象二郎が数えで11才を迎えた嘉永元年(1848年)以降、立て続けに不幸に見舞われます。
江戸藩邸で父が病死すると母が実家に戻され、祖母に育てられるも数年で亡くなってしまい、伯父に預けられると狭い部屋に閉じ込められるような暮らしを迎えるのです。
救いの手を差し伸べたのが、義理の叔父にあたる吉田東洋でした。

吉田東洋/wikipediaより引用
板垣や岩崎と共に「少林塾」で学ぶ
優れた見識を持った人物として知られる東洋。
「老公」として土佐藩に君臨する山内容堂は、この東洋を師と仰ぎ、重用するほどでしたが、同時に彼には性格の癖が強い欠点もありました。
安政元年(1854年)に酒宴の席で暴力事件を起こし、役目を解かれてしまうのです。
しかし象二郎にとっては、不幸中の幸いとも言えました。
役目を解かれた東洋が「少林塾」を開いて若者を指導するようになり、象二郎も通うことになったのです。
安政2年(1855年)から安政5年(1858年)まで開かれていたこの塾からは、象二郎だけでなく
・板垣退助
・岩崎弥太郎
・谷干城
・福岡孝弟
といった有能な土佐藩士たちが巣立っていきました。
そして東洋が政治の舞台に復帰すると、彼が育てた青年たちにも活躍の場がめぐってきました。
「私の甥ですが、後藤は必ずや藩のお役に立つべき者と存じます」
才気煥発な象二郎は、容堂の目にも叶いました。
少林塾で学んだ青年たちは【新おこぜ組】と呼ばれ、藩政改革を背負う逸材に育っていったのです。

山内容堂/wikipediaより引用
【新おこぜ組】の一員としての浮沈
安政5年(1858年)、象二郎は幡多郡奉行となり、普請奉行、近習目付を歴任。
しかし文久2年(1862年)、武市半平太率いる【土佐勤王党】が吉田東洋を暗殺すると、状況は一変します。
武市半平太は東洋の悪評を抜かりなく広めており、暗殺の被害者遺族である吉田家は断絶へ。

武市半平太/wikipediaより引用
東洋一派は軒並み免職に追い込まれ、象二郎も役を解かれてしまうのです。
それでもめげずに江戸へ出た象二郎は、開成所で蘭学、英学、英語、航海術を習得。
その間、土佐では、容堂が武市半平太らの言いなりになったようでいて、象二郎も腹の底では怒りと復讐心をたぎらせていました。
土佐で再び動きが活発化するのは、その翌年のことです。
文久3年(1863年)、京都から帰国した容堂が土佐勤王党の逮捕を命じると、元治元年(1864年)に象二郎も藩政へ復帰。
そして土佐勤王党のメンバーが囚われた獄へ、訊問のため姿を見せます。
父と仰いだ東洋が無惨に暗殺された。その仇です。
象二郎の理路整然とした訊問に、囚人たちは重い口を開いてゆきます。
武市半平太たちからすれば後藤象二郎は憎い相手ですが、元はといえば吉田東洋を殺した方が悪いのです。
慶応元年(1865年)、武市半平太以下【土佐勤王党】の面々は処断されました。
なお、母を失い孤児となった東洋の嫡男・正春は、象二郎が引き取り育てていました。
武力に依らぬ政権交代実現を目指す
慶応2年(1866年)、象二郎は藩命を受け、薩摩や長崎、そして上海まで出張します。
坂本龍馬と知遇を得たのもこの頃のこと。

坂本龍馬・上野彦馬が長崎に開業した上野撮影局で撮影/wikipediaより引用
たしかに龍馬は武市半平太のもと【土佐勤王党】にいたこともあります。
彼の知人友人の中にも、岡田以蔵はじめ、尋問を獄中で受け命を落としたものもいます。
しかし両者は恨みつらみを捨て、国事のために一致したのです。
象二郎は龍馬を気にいり、脱藩を免罪したうえで、海援隊と陸援隊を任せました。
龍馬の「船中八策」を容堂にみせ、藩の方針にしたともされています。
ただ、こうした龍馬伝説は誇張もありますので、注意が必要です。
龍馬の仲介により、慶応2年(1866年)1月に結ばれた【薩長同盟】もそうです。

西郷隆盛と木戸孝允、そして坂本龍馬らですすめられた【薩長同盟】/wikipediaより引用
倒幕のためと誤解されやすいですが、当初は追い詰められていた長州藩を救うためのものでした。徳川慶喜と対立し【一会桑政権】に不満を募らせていた薩摩側の思惑もあります。
土佐藩には、薩摩藩や長州藩とは異なる、独自の路線がありました。
武力を行使しない、ソフトランディングによる政権交代、変革を考えていたのです。
近藤勇との対面で
慶応3年(1867年)、土佐藩は最終局面に挑みます。
まずは薩摩藩を牽制すべく【薩土盟約】を締結。これは間も無く反故にされますが、土佐藩は同時に幕府とも交渉していました。
徳川慶喜の懐刀といえる幕臣・永井尚志と折衝し、【大政奉還】を進めていたのです。

永井尚志/wikipediaより引用
その交渉役こそ象二郎です。
近藤勇が長脇差を持ち、会談の場へやって来たところでこう告げます。
「私はその腰に挿した長いものが大嫌いでして。それは外して語り合いましょう」
象二郎は背が高く、筋骨たくましく、相撲取りかと思えるほどの迫力がありました。
新選組局長と対峙しても負けない気迫で、武装解除させると、大政奉還についての説明を始めました。
すると近藤勇はため息をついてこう語ったと言います。

近藤勇/Wikipediaより引用
「うらやましいことですな。それがしも土佐におれば、思う存分働けたものを……」
「あなたは天下に名が知られておりますからな。いっそ商業に転換してみては? 大阪の豪商ならば顔がききます。紹介しましょうか」
近藤勇は政治的見識のある人物です。象二郎と語らうことで、己の限界も自覚できたのかもしれません。
しかし彼にはついにその紹介を頼むことはできませんでした。
土佐藩の態度はどっちつかず、わかりくいと後世に評されたりします。
しかし【武力倒幕】は禁じ手であり、下策というのが当時の認識。
内戦のせいで諸外国に干渉されては危険である。無駄に血を流すことはない。それが良識的な意見でした。
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なぜ西郷は強引に武力倒幕を進めたのか?岩倉や薩摩藩は“下策”に反対
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パークス襲撃事件
土佐藩と慶喜で進めた政略も、大政奉還までは成功しました。
ところが慶喜一派は、会津藩や周囲に相談(根回し)をしておらず、騙し討ちだと焦燥した会津藩は、坂本龍馬と中岡慎太郎を暗殺してしまいます。

中岡慎太郎/wikipediaより引用
不穏な空気は彼らの周辺だけにとどまりません。
薩摩藩も武力討幕に乗り気であったのは一部の者たちだけでしたが、薩摩藩を指導し、武力討伐に反対していた赤松小三郎が、中村半次郎によって殺害されてしまいます。

赤松小三郎/wikipediaより引用
そして慶応4年(1868年)1月の戊辰戦争へ。
土佐藩は幕末の最終局面において、倒幕か、佐幕か、優柔不断であったように誤解されています。
しかし彼らは武力に依らない第三の道を目指していただけのこと。
戊辰戦争が始まった同年3月、ハリー・パークスの護衛を務めていた後藤象二郎は、襲撃事件に遭遇。

ハリー・パークス/Wikipediaより引用
暗殺犯を撃退し、英国公使を救ったことでビクトリア女王から讃えられたのは、前述の通りです。
パークスは象二郎のことを「聡明で話がわかる」と絶賛しており、さらには「彼より勝る大人物は西郷隆盛くらいだ」と評したほどでした。
両者には信頼関係がありました。
象二郎は知識を吸収し、西洋諸国を参考にしながら、新たな国家を作りたい気持ちがあったのでしょう。
しかし、いざ明治の世が始まってみれば、そううまくはいきません。
ちなみに象二郎の親友である板垣退助は、そのころ戊辰戦争に転戦し、会津戦争にも従軍していました。
藩閥政治から脱落する土佐
明治の世が始まったとき、後藤象二郎はまだ三十になったばかりの青年でした。
象二郎からすれば、政府の上層部にいる連中は遠回りをしたように思えてもおかしくはありません。
明治政府が採用した商業重視にせよ、開国にせよ、吉田東洋が唱え、山内容堂も採用した政策です。
明治政府というと、やる気にあふれた人物が颯爽と仕事をしていたようで、そうでもありません。
藩閥政治でポストを得たものの、実務能力がない官僚たちがプカプカとタバコを蒸してボケーッとしているような、滅茶苦茶な幕開けでした。
外交にせよそうです。
パークスと気脈を通じ合い認められていた象二郎。これは他の人物の回想と比較すると、実に驚異的だとわかります。
それというのも、伊藤博文、木戸孝允、大隈重信ですら、パークスに怒鳴り散らされると縮こまるばかりであったというのです。

大隈重信(左)と伊藤博文/wikipediaより引用
象二郎は華麗な職を歴任します。
ただちに参与となり、大阪府知事、左院議長、参議、工部大輔などなど。
それでも不満が燻っていたことでしょう。
薩長土肥のうち、時間を経ると薩長ばかりが大きな顔をする。
その藩閥政治で無能な連中ものさばっている。
そうした不満を抱いていた象二郎は、明治6年(1873年)の【征韓論争】に巻き込まれ下野しました。
中心にいた西郷隆盛、彼の親友である板垣退助も政府を辞しています。いわゆる【明治六年政変】です。
その後の後藤象二郎は、非常に掴みどころがない人生を歩みます。
時に実業家。
あるいは板垣退助と共に自由民権運動で立ち上がる。
政府の外から目を光らせるようで、入閣する。
やることなすこと多岐に渡りすぎ、くだけた言い方をすればキャラクターが掴めません。
このことは当時から言われていたことでした。
見果てぬ夢を抱いた気宇壮大な人物
後藤象二郎は何者なのか――。
陸奥宗光はこう語りました。

陸奥宗光/wikipediaより引用
「明治時代の人物だろうか? 魏晋南北朝か唐のあとの五代十国時代に名をあげそうな英傑が、何かの間違いで我が国に出てきたように思える」
魏晋南北朝とは『三国志』後の舞台です。
五代十国時代も混沌としています。
こんな時代に名を残した人物は、相当濃厚で奇妙に思える。
しかも日本ではなく中国。得体の知れぬ巨大さを感じていたことがわかります。
中岡慎太郎とパークスは、象二郎と西郷隆盛を比較しています。
中岡慎太郎は後藤象二郎、パークスは西郷隆盛を、僅差でやや上回ると評している。
その当時の人々が感じたスケールの大きさや、得体の知れなさが、後世において彼の名が表に出て来ない要因にも思えます。
スケールの大きさゆえに恨みを捨て、象二郎が免罪した坂本龍馬。
彼はフィクションで人気が出過ぎたせいか、後藤象二郎の個性を食った感はあります。
坂本龍馬だったらどう問題を解決するのか?
そういった問いかけはよく見かけますし、尊敬する人物に龍馬の名をあげる人も多い。
この龍馬像は実在した一人の人物というよりも、何かスケールの大きな“もや”のかかった像にも思えてくる。
志半ばにして生涯を追え、明治を生きていないからこそ、いくらでも夢がふくらむ。信長が本能寺で斃れたようなもので、途中で終わった物語はいくらでも膨らませることができます。
しかし、後藤象二郎の場合はそうではありません。
彼の目指した理想の断片はつかめます。
武力倒幕なしでの政権交代。
憲法や国会の制定。
議会政治の実現。
活発な外交。
経済活動。
どれも断片的にしか実現できていない。
スケールが大きすぎて理解されず、したがって実行に移せないビジョンが後藤象二郎の頭の中には詰まっていた。
明治以降はメインコースから弾かれた土佐閥の者として、どうしても限界があったのです。
スケールが大きい人物が、それに似合うだけの権力を持てない――それが後藤象二郎の生涯だったのではないでしょうか。

後藤象二郎/wikipediaより引用
明治30年(1897年)8月4日、後藤象二郎は心臓病により亡くなりました。
享年60。
彼の理解にしにくさ、影の薄さは、土佐藩が背負った命運の象徴のようにも思えます。
いまだに幕末土佐藩を追うとなると、坂本龍馬の青春像と見果てぬ夢で止まってしまう。
そんな限界の影に、後藤象二郎の像はあるのです。
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【参考文献】
橋川文三『幕末明治人物誌』(→amazon)
平尾道雄『吉田東洋』(→amazon)
泉秀樹『幕末維新人名事典』(→amazon)
松岡司『武市半平太伝』(→amazon)
他






