織田家の有力武将だった荒木村重が、突如、有岡城(伊丹市)に立て籠もり、反織田の旗を立ち上げました。
織田信長を裏切ったのです。
荒木村重と有岡城は、中国エリアや石山本願寺攻略のため非常に重要な拠点であり、ヘタをすればそこを足掛かりに織田勢が攻められかねません。
この一刻を争う事態に立ち上がったのが黒田官兵衛。
村重を説得するため有岡城へ出向いていくのですが、その場で呆気なく拘束されてしまい、さらには座敷牢へ閉じ込められてしまいました。
問題は、主君の信長です。
「村重を織田家に取り戻す」と言いながら、一向に有岡城から戻ってこない――そんな官兵衛も「織田を裏切った」と思い込み、人質となっている息子・松寿丸(のちの黒田長政)の殺害を命じました。
そこで登場するのが竹中半兵衛です。
信長には“偽首”を提出し、本物の松寿丸は家臣の下で匿うわけですが、問題は「上司である豊臣秀吉は知っていたのか?」ということでしょう。
下手をすれば信長から激しく叱責されかねない一件。
一体どうなったのか?
松寿丸が人質になるところから救出されるまでを史実ベース(黒田家譜)で振り返りってみましょう。
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官兵衛の結婚した年は実は不明
官兵衛は、加古川の志方城の城主の櫛橋伊定(くれはしこれさだ)の娘「櫛橋光(てる)」と結婚しました。
結婚した年の記録はありません。
史料に出てくるのは、松寿が生まれた永禄11年(1568年)11月3日のことで、この時点で官兵衛は23歳、光は16歳でした。
光は美女だけど体が官兵衛より大きかったと言います。
割と結婚してすぐ生まれたと考えるのが妥当かもしれませんね。
それにしても、戦国時代にしては官兵衛は晩婚でした。
そして、側室を持たないという当時としては珍しい武将でした。
松寿丸は人質に
姫路城を含む播磨は、信長と毛利に挟まれて中小勢力が割拠して草刈り場の様相でした。
官兵衛は主君の小寺氏を説得して、信長へと下ります。
『黒田家譜』では、1577年(天正5年)秋に、松寿を安土城に差し出したと記載されています。
同時に官兵衛は、「播磨の東隣で毛利方の備前・美作の武将たちを説得して、人質を出させるよう」信長から命じられました。
信長にしてみたら、よそものの官兵衛を高く買っていたと同時に、軍事機密を扱う役目もあるので松寿を人質に出させたと分析する研究者もいます(『黒田官兵衛』講談社現代新書77P)。
秀吉も起請文(きしょうもん・神様に誓う形で約束する契約書の一種)を官兵衛に提出。
そこには
・官兵衛を粗略に扱わない
・人質の身の安全を確保する
といったことが記されていました。
戦国時代における「起請文」は結構大事な存在です。
この頃は、神仏への信仰心が非常に強いので、神と約束したことを容易に破ると自分に災いが降りかかってくると心から信じられていました。
「人質を守る」という約束は、秀吉にとって、信長という俗世の主とはひとつ違ったレベル(どちらが上と言えば信長だけれども)で、遵守すべき案件となります。
しかし……。
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