織田信長の生涯を描いた『信長公記』によると、天正6年(1578年)10月21日、荒木村重が謀反を企てているという一報が信長へ届けられました。
にわかには信じがたい信長。
しかし荒木村重は実際、有岡城(伊丹市)に籠もり、反織田の勢力として立ち上がる。
要は、織田信長を裏切ったのですね。

荒木村重/wikipediaより引用
荒木村重と有岡城は、中国エリアや石山本願寺攻略のため非常に重要な拠点であり、ヘタをすればそこを足掛かりに織田勢が攻められかねません。
この一刻を争う事態に立ち上がったのが黒田官兵衛。
村重を説得するため有岡城へ出向いていくのですが、その場で呆気なく拘束されてしまい、さらには座敷牢へ閉じ込められてしまいました。
問題は、主君の信長です。
「村重を織田家に取り戻す」と言いながら、一向に有岡城から戻ってこない――そんな官兵衛も「織田を裏切った」と思い込み、人質となっている息子・松寿丸(のちの黒田長政)の殺害を命じました。
そこで登場するのが竹中半兵衛です。

竹中半兵衛/wikipediaより引用
信長には“偽首”を提出し、本物の松寿丸は家臣の下で匿うわけですが、問題は「上司である豊臣秀吉は知っていたのか?」ということでしょう。
下手をすれば信長から激しく叱責されかねない一件。
一体どうなったのか?
松寿丸が人質になるところから救出されるまでを史実ベース(黒田家譜)で振り返りってみましょう。
官兵衛の結婚した年は実は不明
官兵衛は、加古川の志方城の城主の櫛橋伊定(くれはしこれさだ)の娘「櫛橋光(てる)」と結婚しました。
結婚した年の記録はありません。
史料に出てくるのは、松寿が生まれた永禄11年(1568年)11月3日のことで、この時点で官兵衛は23歳、光は16歳でした。
光は美女だけど体が官兵衛より大きかったと言います。
割と結婚してすぐ生まれたと考えるのが妥当かもしれませんね。
それにしても、戦国時代にしては官兵衛は晩婚でした。
そして、側室を持たないという当時としては珍しい武将でした。

黒田官兵衛/wikipediaより引用
松寿丸は人質に
姫路城を含む播磨は、信長と毛利に挟まれて中小勢力が割拠して草刈り場の様相でした。
官兵衛は主君の小寺氏を説得して、信長へと下ります。
『黒田家譜』では、1577年(天正5年)秋に、松寿を安土城に差し出したと記載されています。

織田信長/wikipediaより引用
同時に官兵衛は、「播磨の東隣で毛利方の備前・美作の武将たちを説得して、人質を出させるよう」信長から命じられました。
信長にしてみたら、よそものの官兵衛を高く買っていたと同時に、軍事機密を扱う役目もあるので松寿を人質に出させたと分析する研究者もいます(『黒田官兵衛』講談社現代新書77P)。
秀吉も起請文(きしょうもん・神様に誓う形で約束する契約書の一種)を官兵衛に提出。
そこには
・官兵衛を粗略に扱わない
・人質の身の安全を確保する
といったことが記されていました。
戦国時代における「起請文」は結構大事な存在です。
この頃は、神仏への信仰心が非常に強いので、神と約束したことを容易に破ると自分に災いが降りかかってくると心から信じられていました。
「人質を守る」という約束は、秀吉にとって、信長という俗世の主とはひとつ違ったレベル(どちらが上と言えば信長だけれども)で、遵守すべき案件となります。
荒木村重の反乱
天正6年(1578年)10月、有岡城の荒木村重が叛旗を翻しました。
村重は、信長軍の対毛利戦線の後衛を務める、中国軍団(秀吉がトップ)のNo.2とも言える超大物。
逆に官兵衛は、はるかに格下の存在でした。
どれぐらいなのか?
というと秀吉配下の幹部「数十人のうちの一人」ぐらいが実情でしょう。
村重の説得には、蜂須賀氏はじめ何人もが挑戦していて、ドラマなどでは官兵衛が最後の切り札として描かれがちですが、ちょっと買いかぶりかもしれません。
ともかく一年間にわたり幽閉されてしまうのは、ご存じの通り。

半兵衛が松寿の命を救ったことを秀吉は知っていた!
信長にしてみれば、官兵衛が音信不通になるのは裏切ったからこそだ――そう思うのも仕方のないことです。
なんせ官兵衛直属の主である小寺氏も裏切っていたのが濃厚だったから。
直接的に、松寿の命を救ったのは、秀吉のもうひとりの軍師・竹中半兵衛です。
半兵衛は、怒り狂う信長に申し上げました。
「官兵衛は忠義の者で、裏切る理由がありません。黒田家を敵にまわすと毛利攻略が危うくなります」
そう申し伝える一方で、こっそりと安土城から自身の領地である岐阜県垂井町へ松寿丸を連れ出したのです。
あるいは松寿丸は、すでに秀吉の長浜城にいたのかもしれませんね。
信長は各地から人質を集めており、すべてを安土城下で管理するのは難しいでしょうから、各軍団長のもとに預けていたという方が自然でしょう。
では、秀吉がそれを知っていたのか?
結論から言えば、知っていた、可能性が高いです。
証拠は2つあります。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
わざわざ半兵衛の忠言を伝えている
一つは、幽閉中に秀吉が官兵衛の叔父に改めて忠誠を誓うように書状を出している(黒田家譜)点。
そこに半兵衛が信長に対して異議をとなえたことが記されていました。
中国エリア戦線で、黒田家の重要性を痛感していたのは半兵衛以上に秀吉です。
秀吉にしてみれば、万が一、官兵衛に裏切られたとしても、黒田家本体が秀吉の味方をしている限りは、松寿丸を活かしておいた方が得策でした。
半兵衛の死後も松寿は生きていた
もう一つは、竹中半兵衛が官兵衛幽閉中に病気で死んでしまうことです。
天正7年(1579年)6月、官兵衛が解放される4か月前のことでした。
もしも竹中半兵衛が単独で、信長・秀吉の意向に反して松寿を匿っていたとしたら、この時点で、竹中家の家中は、家の存続のために松寿丸を処分していたでしょう。
ところが4か月間も生き延びていることは、竹中家にとっては主・秀吉からの了解があると推察できます。
ゆえに半兵衛は秀吉の了承のもと松寿丸を生かしていたと考えるのが自然。
大河ドラマ『軍師官兵衛』では、秀吉の妻・ねねが「松の扇子」を黒田家に渡して「松寿丸生存」の意図を暗に伝えておりましたが、史実でも黒田家を重視した秀吉の画策と見てよろしいのではないでしょうか。
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参考文献
- 渡邊大門『黒田官兵衛 作られた軍師像(講談社現代新書 2225)』(講談社, 2013年9月18日, ISBN-13: 978-4062882255)
出版社: 講談社(公式商品ページ) |
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