NHK大河ドラマ『豊臣兄弟』で注目される松寿丸。
後の黒田長政として知られる人物であり、幼少期には父・黒田官兵衛の離反を疑われ、織田信長から殺害命令を受けました。
その命を救ったのが竹中半兵衛です。
なぜ半兵衛は松寿丸を匿ったのか?
豊臣秀吉はそのことを知っていたのか?

黒田長政/wikipediaより引用
ドラマでも大いに注目の場面。
松寿丸が生まれて人質となり、救出されるまでを史実ベース(黒田家譜)で振り返ってみましょう。
官兵衛と光の結婚時期は実は不明
そもそも松寿丸はいつ生まれたのか?
父の黒田官兵衛は、志方城主の櫛橋伊定(くれはしこれさだ)の娘・櫛橋光(てる)と結婚。
結婚した年の記録はありません。
松寿丸が生まれたのは永禄十一年(1568年)11月3日と史料にあり、荒木村重が謀反を起こしたのが天正六年(1578年)ですので、この時点で数え11才ですね。
なお、松寿丸生誕時の官兵衛は23歳、光は16歳でした。
光(てる)は容姿に優れ、官兵衛より体格が大きかったようで、結婚して割とすぐ生まれたと考えるのが妥当かもしれません。
それにしても官兵衛は、戦国時代にしては晩婚でした。
そして、側室を持たないという当時としては珍しい武将でした。

黒田官兵衛/wikipediaより引用
松寿丸は人質に
大河ドラマ『豊臣兄弟』でも描かれたように、当時の播磨は織田と毛利に挟まれ、中小勢力が割拠する草刈り場でした。
黒田官兵衛は、秀吉の中国攻略が始まると、主君の小寺氏を説得して信長へと下ります。
『黒田家譜』では、天正五年(1577年)秋に、当時10才の松寿丸を安土城に差し出したと記載。
同時に官兵衛は「毛利方の備前・美作の武将たちを説得して、人質を出させるよう」信長から命じられました。
信長にしてみたら、よそものの官兵衛を高く買っていたと同時に軍事機密を扱う役目もあるので、松寿丸を人質に出させたと分析する研究者もいます(『黒田官兵衛』講談社現代新書)。

織田信長/wikipediaより引用
一方、秀吉も起請文(きしょうもん・神様に誓う形で約束する契約書の一種)を官兵衛に提出しました。
そこには
・官兵衛を粗略に扱わない
・人質の身の安全を確保する
といったことが記されていました。
戦国時代における「起請文」は結構大事な存在です。
この頃は、神仏への信仰心が非常に強いので、神と約束したことを容易に破ると自分に災いが降りかかってくると心から信じられていました。
「人質を守る」という約束は、秀吉にとって、信長という俗世の主とはひとつ違ったレベルで(どちらが上と言えば信長だけれども)、遵守すべき案件となります。
しかし、天正六年(1578年)10月、そんな彼らに衝撃が走ります。
有岡城の荒木村重が叛旗を翻したのです。
荒木村重の反乱
謀反を起こした荒木村重は、信長軍の対毛利戦線の後衛を務める、中国軍団のNo.2とも言える超大物(秀吉がトップ)。
逆に黒田官兵衛は、はるか格下の存在でした。
どれぐらいなのか?
というと秀吉配下の幹部「数十人のうちの一人」ぐらいが実情でしょう。
村重の説得には、蜂須賀氏はじめ何人もが挑戦していて、ドラマなどでは“軍師官兵衛”が切り札として描かれがちですが、ちょっと買いかぶりかもしれません。
ともかく説得に出向いた官兵衛は、その後、一年間にわたり幽閉されてしまいます。

問題は、官兵衛が幽閉された直後のことでした。
秀吉は松寿丸の生存を知っていた可能性が高い
織田信長にしてみれば、官兵衛が幽閉されたことなど知らず、音信不通になるのは裏切ったからこそだ――と思うのも仕方のないことです。
なんせ官兵衛直属の主である小寺氏も裏切っていたのが濃厚だったから。
そこで直接的に、松寿丸の命を救ったのが竹中半兵衛でした。

竹中半兵衛/wikimedia commons
半兵衛は、怒り狂う信長に申し上げます。
「官兵衛は忠義の者で、裏切る理由がありません。黒田家を敵にまわすと毛利攻略が危うくなります」
そう申し伝える一方で、こっそりと安土城から自身の領地である岐阜県垂井町へ松寿丸を連れ出したのです。
あるいは松寿丸は、すでに秀吉の長浜城にいたのかもしれませんね。
信長は各地から人質を集めており、すべてを安土城下で管理するのは難しいでしょうから、各軍団長のもとに預けていたという方が自然でしょう。
では、秀吉がそれを知っていたのか?
結論から言えば、知っていた可能性は高い。
証拠は2つあります。
わざわざ半兵衛の忠言を伝えている
一つは、幽閉中に秀吉が官兵衛の叔父に改めて忠誠を誓うように書状を出している点(黒田家譜)。
そこに半兵衛が信長に対して異議をとなえたことが記されていました。
中国方面の戦線で、黒田家の重要性を痛感していたのは半兵衛以上に秀吉です。
豊臣秀吉にしてみれば、万が一、官兵衛に裏切られたとしても、黒田家本体が秀吉の味方をしている限りは、松寿丸を活かしておいた方が得策でした。

絵・富永商太
半兵衛の死後も松寿丸は生きていた
もう一つは、竹中半兵衛が官兵衛幽閉中に病気で死んでしまうことです。
天正七年(1579年)6月、官兵衛が解放される4か月前のことでした。
もしも竹中半兵衛が単独で(信長・秀吉の意向に反して)松寿丸を匿っていたとしたら、この時点で、竹中家の家中は、御家存続のため松寿丸の処分を検討しても不思議ではありません。
ところが4か月間も生き延びていることは、竹中家にとっては主・秀吉からの了解があると推察できます。
ゆえに半兵衛は秀吉の了承のもと松寿丸を生かしていたと考えるのが自然。
★
大河ドラマ『軍師官兵衛』では、秀吉の妻・寧々が「松の扇子」を黒田家に渡して「松寿丸生存」の意図を暗に伝えておりました。
大河ドラマ『豊臣兄弟』ではどうなるのか?それは放送をお楽しみということで。
いずれにせよ「松寿丸を生かしておいた」のは、黒田家を重視した秀吉の政治的判断だった――そう考えるのが自然ではないでしょうか。
なお、松寿丸は後に黒田長政となり、黒田家を大藩へと導いていきます。
その詳細は以下の記事をご参照ください。
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参考文献
- 渡邊大門『黒田官兵衛 作られた軍師像(講談社現代新書 2225)』(講談社, 2013年9月18日, ISBN-13: 978-4062882255)
出版社: 講談社(公式商品ページ) |
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【TOP画像】竹中半兵衛と黒田長政(左)/wikimedia commons






