こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【黒田長政】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
黒田父子で2万以上の兵力を調略
慶長五年(1600年)7月、黒田長政にとっては結婚の翌月となるタイミングで、家康は上杉家討伐のために立ち上がりました。
長政は、その先陣として従軍。
関ヶ原本戦でも、もちろん東軍に属し、その働きは絶大なものがありました。
戦場を暴れまわった……などの話ではなく、事前に浅野幸長と二人がかりで小早川秀秋へ工作を行っていたのです。
さらに父の黒田官兵衛が、吉川広家と連絡を取り続けていたこともあり、広家は長政を通して家康に通じ、関ヶ原当日に「傍観を貫いて毛利家を守る」ことになります。
俗に「宰相殿の空弁当」と呼ばれる出来事ですね。
こうして官兵衛と長政の父子は、毛利軍と小早川軍を見方にして、東西の兵数や配置を一気に逆転させました。

吉川広家(左)と小早川秀秋/wikipediaより引用
毛利軍1万6000と小早川軍8000の合計2万4000もの兵を黒田父子(その他に浅野幸長や北政所らの協力あり)で寝返りさせたわけです。
合戦に比べて調略はどうしても地味と思われがちですが、実際はとんでもない数字で、事実上、戦の趨勢を決めたようなものですね。
また、長政は関ヶ原前夜といえる時期に家康やその家臣たちとかなり頻繁に書状のやり取りをしており、自家の立場を守るためにありとあらゆる方法を用いたといえます。
家康は、戦場でもそれ以外でも活躍した黒田家に対し、手厚く礼をしました。
関ヶ原後、長政は豊前中津18万石から筑前福岡約52万石へ大幅に加増。
ついでに9月19日付けで家康の感状も貰っており、名実ともに最高の褒美を受け取ったのです。
歴戦の勇者・又兵衛を奉公構
とまあ、ここまでは知勇を兼ね備えた立派な大名といえるのですが、黒田長政には”少々”度を超えたとしか思えない欠点があります。
一度評価を下げた人間に対し、非情なほどに敵対してしまうのです。
まずは後藤基次(後藤又兵衛)との話。

後藤又兵衛基次/Wikipediaより引用
基次は父の官兵衛に仕えており、代替わり後もそのまま仕えるのが普通ですが、長政は基次を黒田家から追い出してしまっています。
しかも「奉公構(ほうこうかまい)」という罰則付きでした。
奉公構とは、他の大名家に「コイツをくびにしたけど、オタクの家でも雇わないでね。もし仕官させたら黒田と喧嘩になりますから」と表明することです。
つまり、いったんこれを出されると、武士としては死んだも同然。
他家に再仕官できなくなるので、切腹の次に重い刑とされました。
他にこの刑を受けた有名人としては、家康のいとこでありながらも破天荒で知られる水野勝成などがいます。
水野勝成は、父親の家臣を殴り殺したことで勘当され、その際に奉公構という仕方のないものでしたが、基次は、勝成ほどの無茶はしていません。
むしろ黒田家にとってなくてはならない重臣です。
しかし、二人は元々ウマが合わないにも程がある関係だったようで、いくつかのイザコザが伝わっています。
よりによって細川忠興と
一つは文禄の役(朝鮮の役前半戦)の頃。

文禄の役『釜山鎮殉節図』/wikipediaより引用
長政が敵将と組み合っているうちに川に落ちてしまったことがありました。
戦の最中に川を渡るだけでも相当難しいことですし、その最中でとっ組み合いなんてやろうものなら、命を落とすどころか首を取られる恐れもあります。
にもかかわらず、すぐ側にいた基次が、長政の救助も助太刀もしなかったというのです。
理由を尋ねられた基次は「ウチの殿なら大丈夫だから、もう少し見ていよう」と真顔で言い切ったとか。
運よく長政が勝って敵将の首を取ったから良かったものの、長政は「なんで助けてくれなかったんだよ!」と憤慨したとか。まぁ、そりゃそうですよね。
こんな感じで、二人は言葉が足りないというか、行き違いでお互いストレスを溜めていたらしき逸話が複数あります。
それでも父の代からの功臣ということで、長政はしばらく基次を厚遇していたのですが、江戸時代に入って長政がブチ切れてしまいました。
なぜなら後藤基次が、黒田長政と仲の悪い細川忠興と仲良くなったのです。

細川忠興/wikipediaより引用
関ヶ原の戦い後、長政がいた豊前に忠興が入ったのですが、そのときまでの年貢を長政が福岡まで持っていってしまったため、両家の関係が急激に悪化していました。
長政は「忠興がムカつくから細川家とは付き合わないように!」(超訳)というお触れを黒田家全体に出しているくらい。
忠興も忠興で「黒田家のヤツ相手に礼儀を尽くす必要はない!もしそんなことをする者がいれば罰する」と家中に命じていました。
もう、こうなるとお互い引っ込みがつかなくなりますね……。
そんな忠興のところへ、”能力は買っているが日頃から気に食わない部下の基次”がなびいていこうとしているのですから、長政としては怒り心頭。
そして前述の”奉公構”に繋がるわけです。
ちなみに基次は黒田家から追い出された後、細川家に身を寄せています。確実にケンカ売ってますね。
さらにその後、基次は大坂冬の陣・夏の陣で豊臣方として真田幸村(真田信繁)らと共に参戦し、道明寺の戦いで討死しました。
長政とは直接対峙していませんが、参戦自体はしていたので複雑な気持ちだったかもしれませんね。
※続きは【次のページへ】をclick!