1625年10月22日(寛永2年9月21日)、西国の戦国武将・吉川広家が亡くなりました。
毛利家を全力で支えた吉川元春の息子――となれば、この広家も同じように毛利家に尽くしたはずですが、家康が天下人となる過程で、非常に複雑な立場に立たされます。
関ヶ原の戦いで、毛利輝元が西軍の総大将となったのに、広家は毛利家を救うため家康に内応するという、なんだかややこしい展開を迎えるのです。
西軍から見れば裏切り者。
しかし、毛利家にとっては家を存続させた功労者とも取れる。
今なお評価の分かれる吉川広家とは一体どんな武将だったのか。
その生涯を振り返ってみましょう。
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生い立ち~家督継承
吉川広家は永禄四年(1561年)、吉川元春の三男として生まれました。
元春が毛利元就の息子ですので、元就の孫となりますね。
この祖父と孫に目立った逸話はないものの、元就は元亀二年(1571年)まで長生きしましたので、何かしらの薫陶を受けたかもしれません。
父・元春に似たのか、広家は幼少時から豪胆だったとされ、それが高じてか「うつけ」とされたこともあるほど。
一方で後年には『源氏物語』を好んだり、茶を嗜んだりもしていて、心身ともに健康で聡明な少年だったと思われます。
初陣は元亀元年(1570年)と少々早めでした。
父・元春が担当していた尼子氏対策の最終局面にあたる時期です。
この頃の尼子氏は既にボロボロになっていましたが、遺臣の山中幸盛(鹿之介)がお家再興のために粘り強く戦っていました。
幸盛は「(主家再興が叶うならば)我に七難八苦を与えたまえ」と月に祈ったという逸話があるほどの忠臣としてよく知られている人です。
元春がまだ満9歳という幼さの広家を初陣させたのも、忍耐強い敵への対処を肌に感じさせるためだったのかもしれません。
その後は父や兄と同じく、毛利家の部将として数々の戦に参加しました。
そして迎えた天正十年(1582年)6月、広家のいた毛利家にも激震が訪れます。
このとき秀吉は毛利家と講和を撰択。
上洛して光秀を倒すと、その後は柴田勝家を制して、ついに織田家のトップに立ちます。
そしてそのまま自身が天下人へ――もはやその流れに逆らえない毛利家は、秀吉に臣従した一環として天正十一年(1583年)、広家を大坂城へ送ります。人質ですね。
翌年には秀吉vs家康の戦として知られる小牧・長久手の戦いが勃発。
和睦のため、家康の次男・結城秀康が人質として大坂へやってきました。
秀康は天正二年(1574年)生まれのため、広家とは一回り以上離れていますが、似た境遇の者同士で通じ合うこともあったかもしれませんね。
秀康も若い頃は荒っぽいところがありましたし、天正十四年(1586年)に始まった九州征伐に二人とも参加していますし。
家督相続
九州征伐の最中のことです。
天正十四年に父・元春、翌天正十五年(1587年)に兄・元長が陣中で病死。
「毛利の両川」とも称される吉川家は広家が継ぐことになりました。
元春は隠居かつ病身だったにもかかわらず、秀吉の強い要請によって無理に出征させられていたので、その影響でしょうか。
元長については病気が発覚してから1ヶ月程度で亡くなっているので、なんとも不穏な気配が感じられます。風土病にでもかかったんですかね……。
いずれにせよ、吉川家を任せられた広家は、秀吉の静かな毛利家攻略と闘っていくことになります。
秀吉は多くの大名家に対し、重臣の引き抜きや直接褒美を与えるなどして、離間を図っていました。
広家も天正十六年(1588年)、秀吉の養女・容光院(宇喜多秀家の同母姉)と結婚したり、毛利領のうち14万石を分けられて個別の大名にされたりしています。
幸いにして夫婦仲は良好だったものの、容光院が結婚から2年半ほどで病死してしまったため、豊臣家の縁が深く繋がることはありませんでした。
しかし天下人に逆らうことは得策ではないと判断したため、広家は朝鮮出兵でも果敢に働きます。
第二ラウンドである慶長の役では、過酷な籠城戦となった蔚山城の戦いで友軍の救援を成功させました。
程なくして豊臣秀吉が死亡すると、事態は混沌として参ります。
広家は、朝鮮出兵中に豊臣恩顧の福島正則・黒田長政・加藤清正といった武断派と親しくなったとされますが、このメンバーと時期といえば、慶長四年(1599年)閏3月の石田三成襲撃事件が起きているのです。
広家はこの件には関与していないと思われるものの、心情的には襲撃側に近かったでしょう。
石田三成は能吏であり、秀吉や自領民などからの評価は高い一方、若い頃から見知っているはずの福島正則たちと良好な関係ではなかったされます。
三成は、創作と思しき逸話が多すぎて、実際の人格をうかがい知るのが難しいのですが、本人の能力がいかに高くても、以下のような泥沼にハマってしまったのは間違いないのでしょう。
本来なら一丸となって秀頼を守り立てるべき豊臣恩顧の者同士が、襲撃事件になるほど険悪な関係に陥る
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徳川家康だけでなく他の大名からみても「豊臣家に先はない」と思わせてしまった
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成り上がりの豊臣家に従いたくないと思っていた大名にとっては「まだ家康のほうがマシ」「豊臣時代より良い立場になれるかも」と思わせてしまう
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結果として三成の味方が減る
元就の「我が家は天下を望むな」という遺訓を守りたい毛利家や両川としても、三成に味方する理由はかなり薄かったはずです。
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