吉川広家の肖像画

吉川広家/wikipediaより引用

毛利家

吉川広家の生涯|なぜ元春の三男(元就の孫)が毛利家の裏切り者とされるのか

2024/10/22

1625年10月22日(寛永2年9月21日)、西国の戦国武将・吉川広家が亡くなりました。

毛利家を全力で支えた吉川元春の息子――となれば、この広家も同じように毛利家に尽くしたはずですが、家康が天下人となる過程で、非常に複雑な立場に立たされます。

関ヶ原の戦いで、毛利輝元が西軍の総大将となったのに、広家は毛利家を救うため家康に内応するという、なんだかややこしい展開を迎えるのです。

西軍から見れば裏切り者。

しかし、毛利家にとっては家を存続させた功労者とも取れる。

今なお評価の分かれる吉川広家とは一体どんな武将だったのか。

吉川広家の肖像画

吉川広家/wikipediaより引用

その生涯を振り返ってみましょう。

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生い立ち~家督継承

吉川広家は永禄四年(1561年)、吉川元春の三男として生まれました。

元春が毛利元就の息子ですので、元就の孫となりますね。

毛利元就/wikipediaより引用

この祖父と孫に目立った逸話はないものの、元就は元亀二年(1571年)まで長生きしましたので、何かしらの薫陶を受けたかもしれません。

父・元春に似たのか、広家は幼少時から豪胆だったとされ、それが高じてか「うつけ」とされたこともあるほど。

一方で後年には『源氏物語』を好んだり、茶を嗜んだりもしていて、心身ともに健康で聡明な少年だったと思われます。

初陣は元亀元年(1570年)と少々早めでした。

父・元春が担当していた尼子氏対策の最終局面にあたる時期です。

この頃の尼子氏は既にボロボロになっていましたが、遺臣の山中幸盛(鹿之介)がお家再興のために粘り強く戦っていました。

幸盛は「(主家再興が叶うならば)我に七難八苦を与えたまえ」と月に祈ったという逸話があるほどの忠臣としてよく知られている人です。

山中鹿之介(山中幸盛)/Wikipediaより引用

元春がまだ満9歳という幼さの広家を初陣させたのも、忍耐強い敵への対処を肌に感じさせるためだったのかもしれません。

その後は父や兄と同じく、毛利家の部将として数々の戦に参加しました。

そして迎えた天正十年(1582年)6月、広家のいた毛利家にも激震が訪れます。

同日、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれたのです。

このとき秀吉は毛利家と講和を撰択。

上洛して光秀を倒すと、その後は柴田勝家を制して、ついに織田家のトップに立ちます。

そしてそのまま自身が天下人へ――もはやその流れに逆らえない毛利家は、秀吉に臣従した一環として天正十一年(1583年)、広家を大坂城へ送ります。人質ですね。

翌年には秀吉vs家康の戦として知られる小牧・長久手の戦いが勃発。

和睦のため、家康の次男・結城秀康が人質として大坂へやってきました。

結城秀康/wikipediaより引用

秀康は天正二年(1574年)生まれのため、広家とは一回り以上離れていますが、似た境遇の者同士で通じ合うこともあったかもしれませんね。

秀康も若い頃は荒っぽいところがありましたし、天正十四年(1586年)に始まった九州征伐に二人とも参加していますし。

 


家督相続

九州征伐の最中のことです。

天正十四年に父・元春、翌天正十五年(1587年)に兄・元長が陣中で病死。

「毛利の両川」とも称される吉川家は広家が継ぐことになりました。

元春は隠居かつ病身だったにもかかわらず、秀吉の強い要請によって無理に出征させられていたので、その影響でしょうか。

元長については病気が発覚してから1ヶ月程度で亡くなっているので、なんとも不穏な気配が感じられます。風土病にでもかかったんですかね……。

いずれにせよ、吉川家を任せられた広家は、秀吉の静かな毛利家攻略と闘っていくことになります。

豊臣秀吉/wikipediaより引用

秀吉は多くの大名家に対し、重臣の引き抜きや直接褒美を与えるなどして、離間を図っていました。

上杉家の直江兼続や、伊達家の片倉景綱などが有名な例です。

広家も天正十六年(1588年)、秀吉の養女・容光院(宇喜多秀家の同母姉)と結婚したり、毛利領のうち14万石を分けられて個別の大名にされたりしています。

幸いにして夫婦仲は良好だったものの、容光院が結婚から2年半ほどで病死してしまったため、豊臣家の縁が深く繋がることはありませんでした。

しかし天下人に逆らうことは得策ではないと判断したため、広家は朝鮮出兵でも果敢に働きます。

第二ラウンドである慶長の役では、過酷な籠城戦となった蔚山城の戦いで友軍の救援を成功させました。

程なくして豊臣秀吉が死亡すると、事態は混沌として参ります。

広家は、朝鮮出兵中に豊臣恩顧の福島正則・黒田長政・加藤清正といった武断派と親しくなったとされますが、このメンバーと時期といえば、慶長四年(1599年)閏3月の石田三成襲撃事件が起きているのです。

石田三成/wikipediaより引用

広家はこの件には関与していないと思われるものの、心情的には襲撃側に近かったでしょう。

石田三成は能吏であり、秀吉や自領民などからの評価は高い一方、若い頃から見知っているはずの福島正則たちと良好な関係ではなかったされます。

三成は、創作と思しき逸話が多すぎて、実際の人格をうかがい知るのが難しいのですが、本人の能力がいかに高くても、以下のような泥沼にハマってしまったのは間違いないのでしょう。

本来なら一丸となって秀頼を守り立てるべき豊臣恩顧の者同士が、襲撃事件になるほど険悪な関係に陥る

徳川家康だけでなく他の大名からみても「豊臣家に先はない」と思わせてしまった

成り上がりの豊臣家に従いたくないと思っていた大名にとっては「まだ家康のほうがマシ」「豊臣時代より良い立場になれるかも」と思わせてしまう

結果として三成の味方が減る

元就の「我が家は天下を望むな」という遺訓を守りたい毛利家や両川としても、三成に味方する理由はかなり薄かったはずです。

 

関ヶ原の戦い

襲撃事件後の三成は、家康の調停により国元の佐和山城へいったん引っ込みます。

家康は、ここぞとばかりに大名家との縁組をさらに進めたり、前田家を圧迫するなどして勢力を強化。

そして会津の上杉景勝征伐に動くと、入れ替わりで大坂城へ毛利輝元が入り、概ね東軍と西軍の構図ができていきます。

石田三成ら豊臣中枢かつ反家康派にとって、この時点で石高的に家康と対抗できるのは毛利家だけです。

そのため毛利家の外交担当だった僧侶・安国寺恵瓊を通じ、毛利輝元を引き込んだとされます。

毛利輝元/wikipediaより引用

広家としてはこの時点で毛利が三成方につくのも反対だったようですが、それを防ぎきれなかった以上、次善策を打つしかありません。

それが関ヶ原の戦いでにおける、福島正則らを通した徳川家康への内通であり、俗に【宰相殿の空弁当(からべんとう)】と呼ばれる出来事です。

弁当ではなく、空(から)の弁当とは、いったい何事なのか?

関ヶ原の戦い当日を振り返ってみますと……毛利秀元が率いた毛利軍は、家康本陣を背後から襲撃できる南宮山に陣取っていました。

輝元が大坂城にいたので、秀元が派遣されていたのです。

毛利秀元/wikipediaより引用

しかし、この秀元なかなか動かない。

不審に思った西軍の長束正家が使いを送ったところ、秀元は

「いま、兵に兵糧を与えているので、もうしばらく待ってほしい」

と言って時間を稼ぎます。

そして小早川秀秋らの東軍参戦によって関ヶ原の戦いはわずか一日で終わってしまった。

すると毛利軍は「最初から裏切っていて、弁当を言い訳にしたのだ」と見なされます。

実際は、南宮山で吉川広家の軍が秀元の前に陣取っていて動かず、毛利の本隊も進めなかったため苦しい言い訳(宰相殿の空弁当)をしたとされますが、あまりにも情けないというか失礼な言い草ですね。

もしも吉川広家や毛利秀元らの大軍が南宮山から襲いかかったら、家康の背後を衝くこともできたので、関ヶ原の戦い自体の行方が変わっていた可能性もあったでしょう。

しかし、事前に広家との約束を取り付けていたからこその東軍の配置だったとも言え、何をどう考えても「IF」の話になってしまいます。

ともかく毛利輝元が西軍総大将のまま、吉川広家が家康に内通して、東軍が勝利したことに変わらず、最大の問題は、戦後処理に尽きます。

毛利家と吉川家はどうなってしまうのか?

家康はどんな判断を下したのか?

 

本家存続のために奔走する広家

敗戦後、関ヶ原から撤退した毛利秀元は、大坂城へ行き輝元に徹底抗戦を求めました。

しかし、輝元はこの案を受け容れず、退去を選びます。

輝元は書状で西軍への指揮を出していたので、それがうまくいかなかった時点で「これ以上の戦は無益」と思ったのでしょう。

吉川広家としては、自身の内通で毛利領を守ったつもりでしたが、家康に輝元の動きがバレたため、

「毛利は敵対するつもりだったことがわかったので、本領安堵とはいかない」

とされてしまいます。

徳川家康/wikipediaより引用

そこで広家は黒田長政らに働きかけて協力を得るのですが、最終的に周防と長門を残してもらうのが精一杯でした。

しかも毛利ではなく「広家に与えられる」とされたため、改めて「どうか毛利の家名を残してください」と家康に頼み込み、なんとか主家を残すことに成功するのです。

この流れはどう捉えるべきなのか?

毛利家を救った……とも言えるはずですが、不幸にも広家は、関ヶ原の戦い後、毛利家中の恨みを一身に受けることになります。

毛利の領地が約120万石から約30万石へ、凄まじい減封となったからです。

上杉家もほぼ同レベルの大減封となりましたが、こちらは当主の上杉景勝自身が家康と敵対しての結果であり、家中の結束は乱れていません。

広家が臣下だったからこそ恨まれたのです。

そしてその扱いは後世にも及びます。

関ヶ原の戦い後、毛利家は防長二国を長州藩とし、支藩として長府藩と徳山藩を設置。

広家とその末裔が収める岩国を一段低い扱いとしたのです。

広家は岩国の町を整備して統治に務めたものの、幕末までこの冷遇は変わりませんでした。

後に格上げされたのは、”そうせい侯”とあだ名された毛利敬親が岩国領主を招いたり、自ら岩国を訪れてからのことです。

毛利敬親/Wikipediaより引用

「広家が余計なことをせず、家康の本軍に襲いかかっていれば、西軍が勝って毛利領が減ることもなかった」

確かにその指摘も一理あるでしょう。

ただし、仮に関ヶ原で西軍が勝っても、家康や江戸幕府より長く平和の続く政権を作れたかどうかは不明。

もしも再び戦乱期に戻ってしまったら、後年、他国から侵略を受けることになっていたかもしれません。

家康は、関ヶ原直前にウィリアム・アダムス(三浦按針)を重用し、当時の西洋事情も他の大名たちより通じていましたので、自身の寿命が尽きる前にやるべきことを計算していたとも考えられます。

となると数百年単位で考え、やはり広家の策は正解だったのではないでしょうか。

なんせ吉川親子にとって最優先だった”毛利本家を守ること”は達成でき、後の幕末~明治維新では長州藩が躍進することになるのですから。

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【参考】
古川薫『毛利元就と戦国武将たち PHP文庫』(→amazon
国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
世界大百科事典
ほか

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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