豊臣秀吉は一代で異常な出世をした人だけに、親族衆や家臣の層が薄いことが弱点。
そのため、息子のような世代の人物を積極的に取り込もうとしています。
福島正則や加藤清正のような、いわゆる”子飼い”と呼ばれる人々はその代表例。
他に当てはまるのが、中国地方の大名・宇喜多秀家でしょう。
秀吉に気に入られ、その養女だった豪姫(実父は前田利家)を妻に与えられ、後に豊臣五大老に選ばれるほどの出世を果たした人物です。
ただし、その後は関ヶ原の戦いで敗北。
八丈島に流され、寂寥感ただよう最期を迎えた……と思いきや、明暦元年(1655年)11月20日に、享年84で亡くなるまで長生きをされているのですから、人の一生とはわからないものです。
イケメンとしても知られる宇喜多秀家とは一体どんな人物だったのか?
その生涯を追ってみましょう。
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父の直家が浦上氏のもとで台頭
宇喜多秀家本人の事績を辿る前に、まずは宇喜多氏の前史について触れておきたいと思います。
宇喜多氏は、信長の出た織田弾正忠家と似たような形で地位を高めてきた家です。
当初、中国地方のうち播磨・備前・美作における最大勢力は赤松氏でした。
その赤松氏も【嘉吉の乱】や【応仁の乱】を経て勢力を弱め、代わりに台頭してきたのが浦上氏。播磨の浦上荘という場所の地頭から守護代へとなりました。
そこで仕えていたのが秀家の父である宇喜多直家です。
直家は、永禄~元亀年間にかけて備前の武将たちを次々と滅ぼし、天正元年(1573年)に岡山城へ本拠を移動。
ちょうどそのころ織田信長が羽柴秀吉に中国攻略を命じたため、宇喜多氏も岐路に立たされました。
そこで浦上氏が織田氏につくと、直家は毛利氏になびいて反織田姿勢でいたのですが、天正七年(1579年)に宇喜多方の城が秀吉に攻略され、羽柴軍に帰順することになりました。
滅亡まで追い込まれなかったので宇喜多氏としてはOKな展開だったでしょう。
その後しばらくは羽柴軍の一員となり、毛利軍と戦っていたところ、直家が天正九年(1581年)2月に死亡。
『尻はす』という病による出血が原因で死に至ったようですが、直家が”暗殺の名人”だったことを考えると、畳の上で死ねるだけでも御の字だったような……。
※以下は直家死因の考察記事となります
戦国一の謀殺王が迎えた最期は「尻はす死」それは一体どんな死に様だったのか
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ここからが秀家本人の話になります。
宇喜多秀家 10歳にして家督を継ぎ
父の急死により家督を継いだ――そんな話は武家でも公家でもよくあることです。
ただ、秀家の場合は少々勝手が違いました。
彼は元亀三年(1572年)生まれなので、この頃はまだ10歳の少年。
幼君+戦の最中となると、家臣団の状況によっては家が乗っ取られたり、滅んだりすることも珍しくありません。
幸い、叔父の宇喜多忠家や家老の戸川秀安・長船貞親・岡利勝などに二心がなかったため、同家はなんとか存続していました。
豊臣秀吉による、あの水攻め(備中高松城の戦い)でも、忠家が一万ほどの兵力で参戦しています。
そして天正十年(1582年)6月2日に本能寺の変が勃発。
直ちに毛利氏と和睦を結んだ秀吉が、中国大返しで京都へ戻り、明智光秀相手に【山崎の戦い】で完勝したのは有名な話ですね。
このとき宇喜多家には、備中の東から備前・美作にまたがる50万石ほどの領地が与えられました。
毛利氏に対抗するため宇喜多家を使おう――そんな秀吉の狙いだったと思われます。
また、秀吉は幼い秀家を気に入ったらしく、猶子として迎え入れました。
なんせ”秀”の字を与えるで、秀吉の養女になっていた豪姫(前田利家の四女)を正室とさせ、夫婦ともに羽柴家の後見を受けるのです。
少々時系列が前後してしまいますが、秀家との結婚後も、秀吉が豪姫を可愛がっていたエピソードにも注目。
豪姫は秀家の子を複数人産みました。
ただ、産後に少々難がある体質だったようで、なかなか体調が戻りません。
その原因を「狐憑き」だと考えた秀吉は、狐狩りやら神楽の力で祓おうとしたと伝わります。
効果の程までは伝えられていませんが、豪姫は寛永十一年(1634年)まで生きていましたので、まぁ、悪くはなかったのかな、と。
話を秀家に戻しましょう。
文禄・慶長の役
秀吉から見た秀家は、まさに息子や孫のような世代であり、当時、実子がいなかったこともあって、かなりの厚遇でした。
官位の昇進も進み、時折起きる大きな戦でも、
何かと目をかけられています。
むろん秀家も期待に応え、さらに後の朝鮮の役では二度とも渡海して戦いました。
秀吉はこの戦を「唐入り」と呼んでおり、朝鮮半島だけでなく中国本土の明まで進む予定だったとされています。
不安な点としましては、秀家がその壮大過ぎる計画に大賛成だったことでしょう。どうもお坊ちゃん特有の楽天的な一面があり、一抹の不安を隠しきれない。
と、思ったら第一回「文禄の役」では、秀家が総大将に任じられています。
現地では、朝鮮半島中部西側の京畿道を担当し、小早川隆景・黒田長政らと共に【碧蹄館の戦い】で勝利。
第二回「慶長の役」では、毛利秀元と共に監軍を務めました。
このときは南原城攻略の後、半島南部西側の全羅道・忠清道を制覇して、順天倭城の築城を行いました。
こうして数々の戦に参加するかたわら、秀家は本拠・岡山の整備にも心を配っています。
天正十八年から岡山城の大改築を行ったり、それまであった建物を整備したり、新たな本丸を造ったり。
さらには城下の道を整備して山陽道から直接通れるようにしました。
物と人の流れをスムーズにして、商工業の活発化を狙った――とは、かなり先見の明がある経済センスですが、同時に周辺の旭川の流れを変え、無理やり堀として使おうとしたため、城下で洪水が頻発してしまいます。
しかも、この問題、現代まで続いているから厄介でして。
・江戸時代
岡山藩と陽明学者の熊沢蕃山によって、放水路の掘削が行われる
・明治~昭和
浚渫(しゅんせつ)やダムの建設などで対策が取られる
・1990~2000年代
台風や大雨のたびに渇水・洪水が起き、住居や農林水産業の被害が深刻になる
近年の水不足やゲリラ豪雨による被害までは、さすがに秀家の責任ではない――とはいえ、笑えない話ですね。
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