「口は災いの元」と言いますように、人間社会では誰しも発言に注意を払う必要があります。
SNS全盛の現代ではネット上でも状況は同じですが、今より約330年前にも「ペンが災いの元」となって数々のトラブルが降りかかってきた人物がいます。
1694年11月21日に誕生した、フランスの啓蒙思想家・作家のヴォルテールです。
本名は「フランソワ=マリー・アルエ」という実に可愛らしい感じながら、彼がヴォルテールと呼ばれているのは、深そうで深くないちょっとした事情がありました。
順を追って彼の生涯を追いかけていきましょう。

ヴォルテール/wikipediaより引用
父に逆らって
ヴォルテールは、パリのブルジョワの家庭に生まれました。
父方も母方も法律関係の仕事をしており、両親は息子にも同じ道を歩ませるべく学校へ入れます。
そこはヴォルテールの他にも貴族やブルジョワの子供が多く通っており、ここで彼は宮廷へのパイプを掴むことになります。
しかし、ヴォルテールは行政や政治の世界に入るよりも、文学に強い興味を示していました。
そして1717年にときの摂政であるオルレアン公フィリップ2世をディスる詩を書いたため、当局に見つかってバスティーユ牢獄に収監されてしまいます。
小野篁みたいな話ですが、こういう人ってどこでもいるもんなんですねえ。

バスティーユ牢獄の内観と外観/wikipediaより引用
ヴォルテールは獄中で、今度は悲劇の台本を書きました。
ギリシア神話のオイディプスをモデルにしたもので、まんま『オイディプス王』という作品です。
オイディプスはいわゆる英雄譚の主人公ですが、以下の通り悲劇てんこ盛りな人。
不吉な予言によって幼いうちに両親の元から離され、成長後に実の父をそれと知らず殺し、さらに実の母と知らずに結婚して子供をもうけ、それが全部終わってから真実を知って苦悩する
神話には教訓や事実の装飾が多分に含まれると思われますが、何もここまで詰め込まなくても……とツッコミたくなりますね。
ちなみに、オイディプスの名は人間の成長過程における「母に執着し、父に敵愾心を抱く」という現象の名前にもなっています。
読みが変わっていますが、「エディプスコンプレックス」というやつです。
凝りずにもう一度バスティーユ牢獄へ
オイディプスの話は古い時代からたびたび戯曲化されており、ヴォルテールの台本も出所後に上演され、大好評を博しました。
後日、ヴォルテールはこの作品で得た名声によってオルレアン公に招かれると、こんなことを言ったようです。
「私の住居についてはもうお世話いただかなくても結構です」
"住居"とはバスティーユの皮肉ですね。
こんな事を言われたら、むしろ世話してやりたくなりそうで……。
その後もアンリ4世(ユグノー戦争を終わらせた王様・ブルボン朝初代)の詩を書いて、これまた好評を得ました。

アンリ4世/wikipediaより引用
この時点でまだ20代前半であり、投獄の件を除けば極めて順調な文化人街道といえます。
しかし、パトロンがいなければ長生きできないのが芸術家。
生活に困窮するようなことになれば、両親がお硬い仕事へ引き戻そうとするのも予想がついていたでしょう。
それは御免だと考えたヴォルテールは、オルレアン公や国王夫妻から年金を受けて、実家からの独立を保ちました。
さらに投資で儲けて大成功し、実家に戻らなくても生活していくだけの財力を蓄えたのです。
実にうらやましい話ですね……いや、その後、また貴族と一悶着起こしてバスティーユ牢獄に入れられてしまっているんですけれども……。
最初の投獄から10年も経っていなかったので、さぞかし看守に苦笑いされたことでしょう。
しかし、このときは相手の貴族のほうがいろいろアレな感じだったこともあり、世論がヴォルテールに味方してくれたおかげですぐに釈放されました。
イギリスを絶賛して逮捕されかける
再び自由の身になった彼は、海を超えてイギリスに向かいます。
そして約2年半滞在し、イギリスの社会をつぶさに観察しました。
ときにはシェイクスピアの劇を見物し、残酷さや卑猥さには眉をしかめつつも、それ以外の点には感銘を受けています。
当時のイギリスはガンガン植民地を広げ、イケイケドンドン(死語)だった頃。
それでいて立憲君主制が成立しており、確実に近代国家へ進んでいました。
まだ絶対王政を是としていたフランスから来たヴォルテールにとって、イギリス社会のありようは大きな衝撃だったことでしょう。
ジョン・ロック(社会契約説&立憲君主制賛成の人)やニュートンといった当時の最先端の学問にも触れ、多大に影響を受けていきます。
そして『哲学書簡』という本を書くのですが、
「イギリスの制度スゲーよ。フランスも見習うべきじゃね?」(超訳)
という内容だったため、フランス人を怒らせて逮捕状が出されてしまいました。
気持ちはわからんでもないですが怒りすぎ。
帰国してまた捕まりかける
ヴォルテールは、愛人シャトレ夫人のシレー城に逃げ込み、二人でここにこもって文学や学問に熱中しました。
シャトレ夫人も相当に頭のいい人で、語学や科学を解する知性的な女性でした。
ヴォルテールにとって得難い人物だったといえるでしょう。

エミリー・デュ・シャトレ/wikipediaより引用
シャトレ夫人に英語や哲学などを教えながら、ヴォルテールは10年近くシレー城を中心に過ごします。
『哲学書簡』でのお咎めは早いうちに解けていましたが、やはりシャトレ夫人との時間が有意義だったからでしょう。
その間ニュートンの入門書や劇の台本、そして詩をいくつか書いていました。
特筆すべきは『この世の人』という詩でしょう。
「アダムとイヴは文明のない自然の中で過ごしていたはずだから、爪が伸びて垢が溜まったような不潔さだったに違いない。
それに比べて今は美食や芸術を楽しむことができる時代であり、こちらのほうが地上の楽園と呼ぶにふさわしい」
ロマンも何もないというか……。
詩だというのに極めて現実感がありますね。
フランス宮廷に入る
1740年代になると、ヴォルテールの思想的な敵対者が減っていき、入れ替わりにポンパドゥール夫人など彼に好意的な人物が力を強めていきます。

そしてヴォルテールはベルサイユ宮殿に出入りできるようになり、アカデミー・フランセーズの会員にも認められました。
しかし、ヴォルテールは前述の通り、旧来の宗教観や価値観に懐疑的な人物。
信仰心の厚い王妃マリー・レグザンスカや、斬新な考えを嫌う人々からは敬遠されました。
「権力を持てたとしても、ここは居心地が良くない」
そう感じたヴォルテールは、王妃と口喧嘩したことがきっかけでベルサイユを離れることになります。
この頃にはシャトレ夫人に別の恋人ができ、別れざるを得なくなりました。
一方でヴォルテールに別のところからお呼びがかかります。
プロイセンの王フリードリヒ2世です。
フランスを離れてプロイセンそしてスイスへ
ルイ15世夫妻とは真逆に、ヴォルテールの思想に共感したフリードリヒ2世は、喜んで彼をベルリンに迎えました。
当時のプロイセンは戦間期であり、無神論者も宮廷の中枢に参加していた頃。
フランスの真逆の空気だったといえます。
ヴォルテールは2年ほどここに滞在しましたが、次第にフリードリヒ2世の独裁的な面が気になり始めました。
王もヴォルテールの散財ぶりが気に入らず、亀裂が入っていきます。

フリードリヒ2世/wikipediaより引用
そして1753年、ヴォルテールははベルリンを去りました。
フランスには帰りづらかった彼は、しばし迷った末にスイス・ジュネーヴへ落ち着きます。
この頃のスイスは、既に中立国として歩み始めていました。
とはいえ、宗教改革で知られるカルヴァンの後継者という面もありましたので、プロテスタント=キリスト教の原点に立ち返ることを重視してもいます。
前述の通り、聖書に対して穿った見方をすることもあったヴォルテールをよく思わない人もいました。
加えて、プロテスタントはその根底に禁欲主義的なところがあります。
そのためジュネーヴでは演劇が禁止されていたのですが、ヴォルテールがジュネーヴで買った屋敷では演劇が行われることもありました。
これがお叱りを受け、ヴォルテールはジュネーヴを出てフランス側の国境にあるフェルネ―に家と土地を購入し、フランスとスイスどちらにでも逃げられるようにしています。
賄賂を使ってでも見逃してもらおうとはしないあたりに、彼の矜持がうかがえるような、そうでもないような。
フェルネーでやっと落ち着けたヴォルテールは、詩や小説の執筆に邁進していきました。
1755年のリスボン大地震に関する詩や、小説『カンディード、または楽天主義』など、多くの名作がここで誕生しています。

『カンディード、あるいは楽天主義説』/wikipediaより引用
屋敷では音楽界や演劇を催しつつも、各地の友人知人と積極的に文通を行いました。
さらにフェルネ―村の工場を支援して経済を潤わせたのですから、地元の人々から慕われるのは至極当然。
そして信頼を勝ち取ったヴォルテールは、これまでと一風変わった仕事を引き受けることになります。
意外なことに、それは“冤罪事件の解決”でした。
冤罪事件の解決者として
1762年3月、ジャン・カラスというプロテスタントが処刑されていました。
彼は自分の息子がカトリックになりたがったので殺した、という罪に問われ、無実を訴え続けたのですが認められず、処刑されてしまったのです。
カラスの無実を信じていた人々も少なからずおり、ヴォルテールに真相の解明を依頼してきました。
ヴォルテールは最初気乗りしなかったそうですが、調査してみるとカラスの無実はほぼ確定と考えられ、こう結論づけました。
「カラスはカトリック側の偏見による不当な裁判で殺された」
そしてポンパドゥール夫人や貴族の知人にこの件を伝えて協力を依頼。
『寛容論』を書いて世間にも訴え、公的なカラス事件の再捜査を求めたのです。
これらを受けて1765年3月に再審が行われ、カラスの名誉は回復されました。
するとヴォルテールのもとに、似たような事件の解決を願う人々が続々と集まって来るようになります。

ヴォルテール/wikipediaより引用
彼らにとってヴォルテールは、「不正に遭ったとき力になってくれる人」というイメージが固まっていたのです。
ときには身の危険を感じることもありましたが、ヴォルテールは助けを求める人々に協力し、名声を高めていきました。
パリへ帰還
ルイ15世が崩御すると、宮廷でもヴォルテールに対する態度が変わり、1778年にパリへ招かれました。
パリ市民は熱狂的に歓迎し、一日に何百人もの客が彼の元を訪れたといいます。
しかし、ヴォルテールはこのとき84歳。
ただでさえ長旅で疲れていたのに、これほどの来客を受けて体力が消耗しないはずもなく、一時期寝込んでしまっています。
その中でも彼の脚本による舞台『イレーヌ』が上演される事になり、コメディー・フランセーズへ足を運んで稽古から立ち会いました。
上演当日は彼の胸像と本人に月桂冠が捧げられ、場内も大いに盛り上がったといいます。
これに満足したのか、舞台の成功で興奮しすぎたのか、あるいは疲労から回復しきれなかったのか。
「イレーヌ」の上演から2ヶ月後、1778年5月30日にヴォルテールはパリでその生涯を閉じました。
一時はスイスとの国境付近に埋葬されていたそうですが、革命の最中にパンテオンという霊廟に改めて葬られています。

パンテオンにあるヴォルテールの墓/wikipediaより引用
「パンテオン」というのはギリシア語で神々や全ての神々を祀る神殿のことなのですが、キリスト教圏ではそれだとマズいので、「偉人を祀る墓所」という意味合いになりました。
固有名詞ではないので、ローマにも同名の建物があります。
パリのパンテオンは当初教会として建てられ、革命中にフランスの偉人を祀る聖堂として性格を変えていたので、問題がなかったと思われます。
他にも、キュリー夫妻やルソー、ユーゴー、大デュマなど、近代フランスの偉人と呼べる人々がここに眠っている場所です。
こういったメンツと共に眠っているとすると、見えないどこかで、ヴォルテールは今も文学や政治談義を繰り広げていそうですね。
参考文献
デジタル版 集英社世界文学大事典
岩波 世界人名大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
