承知五年(838年)12月15日、小野篁(おののたかむら)が嵯峨上皇の怒りを買って隠岐の島へ流罪になりました。
理由は?
というと、当人の頭が良すぎて災いを招きよせた――そんな風に見える出来事でした。
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遣唐使絡みのトラブルから
原因は、遣唐使の渡航に関するトラブルでした。
小野篁は副使として同行していたのですが、正使の藤原常嗣(つねつぐ)が乗っていた船が故障してしまったため、「篁さんの船を私のにしてもらえない?」とまるでジャイアンのようなことを言われます。
当然、篁は面白くありません。
「船のメンテをサボったのはそっちでしょ。取り替えたら私が船を壊したみたいじゃないか、アホらしい。持病の癪(しゃく)も出てきたし、私は帰ります」
とばかりに副使の役目を放り出し、帰ってきてしまうのです。
ここまでなら言い訳のしようもあったかもしれません。
腹の虫が収まらない篁は、勢いに任せて、お上や政治制度について面白おかしくおちょくった漢詩を詠んでしまいました。
しかもその中に禁句がいくつも含まれていたので、嵯峨天皇が「お前言っていいことと悪いことがあるだろ!」と激怒、流罪に処されたのでした。
世情をディスったラップで島流し
「それだけで流罪とか大げさな……」
そう思うかもしれませんが、当時は言霊とか呪詛が本気で信じられていた時代ですから、放送禁止用語のタブーが今よりずっと厳しかったのです。
頭が良くないと漢詩で風刺なんてできません。
たとえ匿名で落書きしたとしてもバレる可能性が高いことはわかっていたでしょうに、何でやってしまったのか……。
篁は若いころ武芸もたしなんでいたそうなので、血の気が多かったのかもしれません。
流罪になるといつ許されるかもわかりませんし、たどり着くまでに船が難破したり、流刑先で病死することもありえました。
そのため死刑の次に重い罰とされていたのです。
ところが……。
篁は大して悲観していなかったのか、『謫行吟(たつこうぎん)』という漢詩を詠んでいます。
こちらは特に問題もなく綺麗な詩で、たちまち学者や貴族達に愛唱されるようになったとか。
全然懲りてねえなと見るか、さすがと見るべきか……。
科挙に合格しながら政争に巻き込まれ、地方官僚として悠々自適の生活を楽しんでいた天才・蘇軾を彷彿とさせますね。
残念ながらこの詩は伝わっていないので、どんなものだったのかわかりません。
評判になったのなら誰か書き写していそうなものですが、残念でなりませんね。
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