戦国大名というと、いかにも戦だらけの日々をイメージしがちです。
しかし「とにかく合戦大好き!」なんてのは少数派。
人の命は無くなるし、お金はかかるし、自分も殺されるかもしれないし、戦なんてのは最終手段であると考える方が自然です。
それは年がら年中戦っていた印象の織田信長も同じでしょう。
尾張の隣国・伊勢については、戦い以外の方法も駆使して、攻略しております。
それが【三瀬の変(みせのへん)】。
1576年12月15日(天正四年11月25日)に起きた事件で、北畠具教(とものり)らが殺害されています。
戦国時代ということを考えても物騒な話ですが、いかなる経緯でこうなったのか。
まずは「北畠家ってどんな家?」というところから見ていきましょう。
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南朝で活躍した一族・北畠氏
北畠家は、伊勢(現・三重県)の大名です。
村上源氏の流れを汲み、南北朝時代には南朝方で後醍醐天皇を助けたという勤王の家でもありました。
『神皇正統記』を書いたのも、北畠親房というこの家のご先祖さま。
彼らは伊勢の国司(県知事みたいなもの)に任じられ、地元で尊ばれる家となりました。
そんなわけで、北朝方の室町幕府とは一悶着ありながら、【応仁の乱】では京から逃げてきた足利義視(義政の弟)を保護したことがあります。
京都に行って戦うことこそありませんでしたが、義理堅いというか、尾を引きずらないというか。
戦国時代には、領土拡大を狙う織田信長とたびたび戦をし、信長の次男・織田信雄を婿養子に迎えるという条件で講和していました。
早い話が降伏です。
しかし当主の北畠具房(ともふさ)には男子がいなかったので、家を残すためであれば、悪いことばかりでもありません。
同時に大きな懸念もありました。
この時期の織田家は後世でいうところの【第三次信長包囲網(1576年~)】が敷かれていたのです。
敵対するのは大大名ばかり 方面軍に任せる
信長を潰すため、諸国に敷かれた包囲網を見てみましょう。
まずは、信長と足利義昭の上洛後(1568年)に降っていた丹波国の波多野秀治が反旗を翻し、続いて宿敵・石山本願寺も挙兵。
毛利や上杉との関係も悪化するばかりか、畿内喉元にいる松永久秀まで裏切るなど、以前より、大規模な包囲網となっておりました。
同時に、この状況は「信長の勢力」がそれだけ巨大化したことを意味しています。
なぜなら織田軍は、信長自らが出向かずとも、各方面に
といった有能な部下たち(家康は同盟国)を配することができたのです。
そうは言っても、包囲網の敵を個々に見れば、いずれも大大名の強敵ぞろい。
北畠家から見れば「もうすぐ滅びるかもしれない織田家と縁ができたところでマイナスにしかならない可能性」もあるわけです。
そうでなくても、婿養子は難しいですからね。
よほど妻側が力を持っていない限り、婿側の家に家を乗っ取られる危険があります。
そんなわけで、具房の父である具教は、いつまで経っても信雄に実権を渡さずゴネていました。
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