犬山城の攻略です。
年次が曖昧なのは他でもありません。
第一級の史料ではありますが、信長公記には意外に、日付が曖昧になっている部分も多々あります。
前後の事情や他の史料とのすり合わせで、やっと時系列がわかるということも珍しくない。
ということで、今回はその辺を加味しつつ進めていきたいと思います。
地味だけど織田家に欠かせない丹羽長秀の活躍が見られます。
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犬山城の支城を次々に調略
前回、小牧山への移転で犬山衆の度肝を抜いた信長。
抜かれたほうの犬山衆には、もちろんさまざまな影響がありました。
小牧山から見下される形になった於久地城(愛知県丹羽郡)は、自ら城を信長に明け渡し、多くの兵が犬山城へ入った……とは前回お話した通り。
その於久地城の主だった中島豊後守という人物は、丹羽長秀を通じて信長へ内応しています。
また、於久地城と同じく犬山城の支城だった黒田城(愛知県一宮市)の主・和田定利も、同様に長秀経由で信長方につきました。
一番頼りにしていた支城の城主たちにも見限られたのでは、犬山城の主・織田信清の運命も決まったようなものです。
信長は彼らの申し出を受け入れ、犬山城への手引きをさせます。
そして、長秀に犬山城を攻めさせました。
犬山城の四方に何重もの垣を巡らせて
この頃の長秀は、決して重い身分とはいえませんでした。
しかし、信長とはもともと一歳違いで信頼も得ていましたし、後に「米五郎左」=「米のように、毎日の生活に欠かせない存在」と評される人物ですから、この手の柔軟な対応を求められる仕事にはうってつけ。
彼は同時に「鬼五郎左」とも呼ばれるようになりますので、おそらくはこの頃から「緩急の切り替えが上手くできる奴」だと、信長に見込まれていたのでしょう。
長秀も、信長の信頼によく応えました。
支城を失って裸同然になった犬山城を、長秀は四方に何重もの垣を巡らせて包囲を続けます。
犬山城が落ちた時期については、信長公記を含めて記録が乏しいのですが、よそへ宛てた信長の書状などからすると、永禄七年(1564年)の夏頃のようです。
於久地城を攻めたのが永禄六年の6月で、小牧山への移転などを挟んでいますから、犬山城を攻めはじめたのは永禄六年の秋ごろのことでしょう。
となると、城方もずいぶん粘っていますね。
犬山城の主・織田信清は降伏せずに逃亡していますし、根比べではいい勝負といえるかもしれません。
稲葉山城攻略の準備は整った!
信清はその後、甲斐の武田氏に身を寄せて”犬山鉄斎”と称していたそうですから、犬山城への執着は生涯持っていたのでしょうね。
残念ながら、彼がどのような最期を迎えたのかはわかっていません。
何はともあれ、犬山城攻略を成功させたことで、美濃攻めに関する後顧の憂いは絶てました。
次回からいよいよ、斎藤氏の本拠・稲葉山城を攻略するための策略や戦が始まります。
信長と織田家が一気に戦国の中心へと踊りだす――その一歩目となるわけです。
長月 七紀・記
※信長の生涯を一気にお読みになりたい方は以下のリンク先をご覧ください。
織田信長の天下統一はやはりケタ違い!生誕から本能寺までの生涯49年を振り返る
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なお、信長公記をはじめから読みたい方は以下のリンク先へ。
◆信長公記
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麒麟がくるのキャスト最新一覧【8/15更新】武将伝や合戦イベント解説付き
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【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link)
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link)
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link)
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link)
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link)
『戦国武将合戦事典』(→amazon link)