丹羽長秀/wikipediaより引用

織田家 信長公記

犬山城の攻略で丹羽長秀が暗躍~戦国初心者にも超わかる信長公記43話

今回は、おそらく永禄六年(1563年)の話。

犬山城の攻略です。

年次が曖昧なのは他でもありません。
第一級の史料ではありますが、信長公記には意外に、日付が曖昧になっている部分も多々あります。

前後の事情や他の史料とのすり合わせで、やっと時系列がわかるということも珍しくない。
ということで、今回はその辺を加味しつつ進めていきたいと思います。

地味だけど織田家に欠かせない丹羽長秀の活躍が見られます。

 


犬山城の支城を次々に調略

前回、小牧山への移転で犬山衆の度肝を抜いた信長。
抜かれたほうの犬山衆には、もちろんさまざまな影響がありました。

小牧山から見下される形になった於久地城(愛知県丹羽郡)は、自ら城を信長に明け渡し、多くの兵が犬山城へ入った……とは前回お話した通り。
その於久地城の主だった中島豊後守という人物は、丹羽長秀を通じて信長へ内応しています。

また、於久地城と同じく犬山城の支城だった黒田城(愛知県一宮市)の主・和田定利も、同様に長秀経由で信長方につきました。

一番頼りにしていた支城の城主たちにも見限られたのでは、犬山城の主・織田信清の運命も決まったようなものです。

信長は彼らの申し出を受け入れ、犬山城への手引きをさせます。
そして、長秀に犬山城を攻めさせました。

絵・小久ヒロ

 


犬山城の四方に何重もの垣を巡らせて

この頃の長秀は、決して重い身分とはいえませんでした。

しかし、信長とはもともと一歳違いで信頼も得ていましたし、後に「米五郎左」=「米のように、毎日の生活に欠かせない存在」と評される人物ですから、この手の柔軟な対応を求められる仕事にはうってつけ。
彼は同時に「鬼五郎左」とも呼ばれるようになりますので、おそらくはこの頃から「緩急の切り替えが上手くできる奴」だと、信長に見込まれていたのでしょう。

長秀も、信長の信頼によく応えました。
支城を失って裸同然になった犬山城を、長秀は四方に何重もの垣を巡らせて包囲を続けます。

犬山城が落ちた時期については、信長公記を含めて記録が乏しいのですが、よそへ宛てた信長の書状などからすると、永禄七年(1564年)の夏頃のようです。

於久地城を攻めたのが永禄六年の6月で、小牧山への移転などを挟んでいますから、犬山城を攻めはじめたのは永禄六年の秋ごろのことでしょう。

となると、城方もずいぶん粘っていますね。
犬山城の主・織田信清は降伏せずに逃亡していますし、根比べではいい勝負といえるかもしれません。

 


稲葉山城攻略の準備は整った!

信清はその後、甲斐の武田氏に身を寄せて”犬山鉄斎”と称していたそうですから、犬山城への執着は生涯持っていたのでしょうね。
残念ながら、彼がどのような最期を迎えたのかはわかっていません。

何はともあれ、犬山城攻略を成功させたことで、美濃攻めに関する後顧の憂いは絶てました。

次回からいよいよ、斎藤氏の本拠・稲葉山城を攻略するための策略や戦が始まります。

信長と織田家が一気に戦国の中心へと踊りだす――その一歩目となるわけです。

長月 七紀・記

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【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link
『戦国武将合戦事典』(→amazon link


 



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