三瀬の変

北畠具教(左)と織田信長/wikipediaより引用

織田家

三瀬の変|信長が伊勢の北畠家を乗っ取るために用いた策略 その全貌

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
三瀬の変
をクリックお願いします。

 


戦で北畠家を叩き潰すのは下策なれど

いざ婿に迎えておきながら何もさせない――そうなれば、当然、信長の印象が悪くなります。

そうした中で、北畠具教が「よーし、パパ隠居するために新しく城造っちゃうぞ」(超訳)と言い出し、工事も始めてしまったので、信長としても放置できなくなりました。

北畠具教/wikipediaより引用

この状況下で城を建てる=軍事拠点を作る=ケンカを売るも同然です。

ただの隠居所であれば、適当な土地を選んで、ちょっと良い屋敷を作ればいいのですから。

実際、「あの野郎、まだワシとやりあう気か? そっちがその気なら先に殺ってやんよ!」(超訳)と判断した信長は、具教一派の始末を決意します。しかし……。

信長の兵事情も厳しいものがありました。

天正2年(1574年)の長島一向一揆で親族を含む多くの将兵を失っていただけでなく、翌年には武田勝頼との死闘【長篠の戦い】が勃発しており、また一から激しい戦いに没頭する余裕はありません。

戦で北畠家を叩き潰すのは下策なんですね。

そこで信長は、もっとコストの少ない方法を選びます。

具教の元家臣たちに「前の主君をブッコロしてこい」(超訳)と命じたのです。

そして彼らは実行しました。

饗応と偽って具教を誘き出し、織田家に好意的でない親族らもまとめて討ち果たしたのです。

この謀略事件が【三瀬の変】であり、手際の良さがこわいですね。

 


具房は太り過ぎていたために助かった!?

結果、北畠家で生き残ったのはほんの僅かでした。

意外なことに、織田信雄の義父となった北畠具房は助かっています。

織田信雄/wikipediaより引用

「大腹御所」「太り御所」と罵倒されるほどの超肥満体だったため、脅威とみなされなかったのかもしれません。

滝川一益の元で三年間幽閉されるだけで済んでいます。

殺されなかっただけマシかもしれませんが、もし体型のお陰だったとしたら……切ない……。

また、具房の娘は織田信雄の元で育ち、信雄の息子の家臣に嫁いだといわれています。

信長が北畠家の血を完全に絶やすつもりであれば、この娘も殺すか、尼寺に入れるかしていたでしょう。

もしくは信雄の妾にしていてもおかしくありません。

そうしなかったのは「女系でなら血を残してやる」という意味合いでしょうか。

信長の三男・織田信孝も押しかける形で伊勢の神戸家に婿養子入りし、義父・神戸具盛を追い出すようにして家督を継いでいます。

ともすれば苛烈なイメージばかりが先行してしまう織田信長。

戦国のような混乱期は

「ほんの僅かでも使える見込みがある奴は残す」

というスタンスが、やはり正解だったのかもしれません。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


あわせて読みたい関連記事

織田信長
織田信長の生涯|生誕から本能寺まで戦い続けた49年の史実を振り返る

続きを見る

織田信雄
織田信雄(信長次男)の生涯|信長の血を後世に残した男は本当に愚将だったのか

続きを見る

織田信長の肖像画
長島一向一揆|三度に渡って信長と激突 なぜ宗徒2万人は殲滅されたのか

続きを見る

武田勝頼の肖像画/父・武田信玄の跡を継いで戦国の荒波を生き、最後は悲運の滅亡に追い込まれた武田家最後の当主
武田勝頼の生涯|信玄を父に持つ悲運の後継者 侮れないその事績とは?

続きを見る

滝川一益
滝川一益の生涯|織田家の東国侵攻で先陣を担った重臣は秀吉の怒りを買って失脚

続きを見る

【参考】
国史大辞典
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon
北畠具教/wikipedia
三瀬の変/wikipedia

TOPページへ


 

リンクフリー 本サイトはリンク報告不要で大歓迎です。
記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。
引用・転載をご希望の際は お問い合わせ よりご一報ください。
  • この記事を書いた人
  • 最新記事

長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

-織田家
-