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【三瀬の変】
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戦で北畠家を叩き潰すのは下策なれど
いざ婿に迎えておきながら何もさせない――そうなれば、当然、信長の印象が悪くなります。
そうした中で、北畠具教が「よーし、パパ隠居するために新しく城造っちゃうぞ」(超訳)と言い出し、工事も始めてしまったので、信長としても放置できなくなりました。
この状況下で城を建てる=軍事拠点を作る=ケンカを売るも同然です。
ただの隠居所であれば、適当な土地を選んで、ちょっと良い屋敷を作ればいいのですから。
実際、「あの野郎、まだワシとやりあう気か? そっちがその気なら先に殺ってやんよ!」(超訳)と判断した信長は、具教一派の始末を決意します。しかし……。
信長の兵事情も厳しいものがありました。
天正2年(1574年)の長島一向一揆で親族を含む多くの将兵を失っていただけでなく、翌年には武田勝頼との死闘【長篠の戦い】が勃発しており、また一から激しい戦いに没頭する余裕はありません。
戦で北畠家を叩き潰すのは下策なんですね。
そこで信長は、もっとコストの少ない方法を選びます。
具教の元家臣たちに「前の主君をブッコロしてこい」(超訳)と命じたのです。
そして彼らは実行しました。
饗応と偽って具教を誘き出し、織田家に好意的でない親族らもまとめて討ち果たしたのです。
この謀略事件が【三瀬の変】であり、手際の良さがこわいですね。
具房は太り過ぎていたために助かった!?
結果、北畠家で生き残ったのはほんの僅かでした。
意外なことに、織田信雄の義父となった北畠具房は助かっています。
「大腹御所」「太り御所」と罵倒されるほどの超肥満体だったため、脅威とみなされなかったのかもしれません。
滝川一益の元で三年間幽閉されるだけで済んでいます。
殺されなかっただけマシかもしれませんが、もし体型のお陰だったとしたら……切ない……。
また、具房の娘は織田信雄の元で育ち、信雄の息子の家臣に嫁いだといわれています。
信長が北畠家の血を完全に絶やすつもりであれば、この娘も殺すか、尼寺に入れるかしていたでしょう。
もしくは信雄の妾にしていてもおかしくありません。
そうしなかったのは「女系でなら血を残してやる」という意味合いでしょうか。
信長の三男・織田信孝も押しかける形で伊勢の神戸家に婿養子入りし、義父・神戸具盛を追い出すようにして家督を継いでいます。
ともすれば苛烈なイメージばかりが先行してしまう織田信長。
戦国のような混乱期は
「ほんの僅かでも使える見込みがある奴は残す」
というスタンスが、やはり正解だったのかもしれません。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon)
北畠具教/wikipedia
三瀬の変/wikipedia