彼らの中で、突如、豊臣秀吉のもとへ出奔し、裏切り者呼ばわりされた武将がいる。
石川数正だ。
本多忠勝や酒井忠次などの徳川四天王に並び称される実力者であり、徳川家康の竹馬の友とでもういうべき存在でありながら、なぜ石川数正はそんな行為に走ったのか。
そして、豊臣政権崩壊後、その身はどうなったのか?
文禄元年(1592年)12月14日は京都で石川数正の葬儀が行われた日。
5つのエピソードに注目しながら、その生涯や出奔理由に迫ってみたい。
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情の鈍い人 石川数正
情の鈍い人であった──。
岡崎三奉行の一人・高力清長※1による、石川数正評である。
情に鈍いとは、つまりは感情を表に出さないということであろう。
一方で数正は、他人の表情から感情を読み取るのに長けた人物だと伝わっており、その広い見識を用いての「交渉」や「外交」が得意であった。
いわば「知将」や「インテリ」であり、「田舎者」と総評される三河武士にしては珍しい「文化人」である。
そんな石川数正が口癖のように使っていた言葉がある。
「三河者は狭量(きょうりょう)」
狭量=心が狭いとは何やら穏やかではないが、男では石川、女では築山殿(徳川家康の正室)が、泥臭い三河の中で「掃き溜めの鶴」が如く光輝いていたからであろう。
三河武士には家内でランクがあり、基準は、
【いつから松平家(後の徳川家)に仕え始めたか?】
という偏ったものであった。
戦や外交の活躍で得た禄高ではなく、生まれが全て――とは、まるで公家社会のような旧態依然としたものであるが、では、数正は三河でどのようなポジションにいたのか。
※1「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三兵」と謡われた「仏高力」こと高力清長
譜代中の譜代「安祥七譜代」だった
徳川家康は松平宗家の出ではない。
安祥(愛知県安城市)を本拠地とする安祥松平家であり、したがって三河武士の最高ランクも安祥城主時代からの家臣となる。
彼らは「安祥譜代」と呼ばれた。
通説では
・酒井
・大久保
・本多
・阿部
・石川
・青山
・植村
以上の7家が「安祥七譜代」であり、石川数正の石川家もそこに数えられる名門である。
というか松平氏を安祥に呼んだのは石川家であるといってもよく、その子孫の石川数正は「家康の懐刀」として活躍した。
しかし、後に数正は出奔した。
本来「出奔(しゅっぽん)」とは「逃亡して行方をくらますこと」であるが、彼の行き先は、あろうことか家康のライバル・豊臣秀吉。
幼少期には、家康と共に駿府で暮らした「竹馬の友」であり、戦国大名になってからは「懐刀」となった存在、いわば重臣中の重臣が敵の麓へ走ってしまったのである。
家康にとっては、本能寺で明智光秀に急襲された織田信長以上の衝撃であっただろう。
数正により、徳川家の機密事項が、豊臣家へ流れる――。
徳川家康や三河武士に与える影響の大きさは、秀吉も数正自身も理解していたであろう。
にもかかわらず、なぜ彼は出奔したのか?
まずは、石川家の始まりと、数正の生まれを見ていこう。
episode① 名門生まれの「七人小姓」
石川数正は、小川城主・石川康正の嫡男として三河国で生まれた。
生年はハッキリせず、ここでは通説にしたがって天文2年(1533年)としておく。
父はの石川康正は同家の宗主であり、母は、松平信康(家康嫡男)の具足親である能見松平家宗主・松平重吉の娘だった。
前述の通り、三河では抜群の血筋である。
小川城は、愛知県安城市小川町志茂にあり、石川康頼(出家して明了・石川政康の四男)が同地に建てた蓮泉寺には、三河石川氏の祖・石川政康の墓もある。
江戸幕府の公文書『寛政重修諸家譜』によれば、石川家の氏祖は、あの八幡太郎義家(源義家・源頼朝や足利尊氏の祖先)に遡るという。
源義家の6男に源義時がおり、その3男に生まれた源義基。
この源義基が、河内国石川郡壷井の石川荘(現在の大阪府羽曳野市壷井)を領して「石川」と称したという。
──鎮守府将軍義家朝臣より三代武藏守義基、河内国石川郡を領せしかば、「石川」と称す。(『徳川実紀』)
一言で言えば「河内源氏」(家紋は笹竜胆)である。
ちなみに今川氏も河内源氏ではあるが、家紋は「足利二つ引」である。
石川義基の子孫は、下野国小山(栃木県小山市)へ移って「小山」と称し、政康35歳の時に、一向宗本願寺蓮如と共に三河国へ移り、以降、小川城を築いて苗字を「石川」に戻したという。
さて、松平3代信光は、松平郷(愛知県豊田市)から南下して、岩津(愛知県岡崎市)に進出、岩津城を居城とした。
その後、松平宗家(岩津松平氏)は衰退し、安祥に進出した信光の3男にして安祥松平家初代・親忠の安祥松平家が宗家となった。
松平4代親忠の安祥進出にあたっては、安祥の国衆である石川氏への挨拶が当然あるべき。
『寛政重修諸家譜』には、
──しばしば小川に赴き、伯父・康長と相はかり、野寺※2、其の外の地侍を御麾下となし、親忠君を安城の城に入れ奉る。(「石川忠輔」の項)
──親忠君、政康が男一人召されて家老となされるべき旨、仰せありしにより、三男・源三郎某を参らす。(「石川政康」の項)
と記されている。
石川政康は、松平親忠の安祥進出を許可し、3男・源三郎(当時14歳)を出仕させた。
後に源三郎は、元服時に「親忠」の「親」をいただいて「親康」と名乗り、石川家を継いだというから、
石川氏は、徳川家康を輩出した「安祥松平家」創設の立役者
とも言える。
関係は浅くないというより絶大な功労者である。
ゆえに天文18年(1549年)、まだ8才の竹千代(後の徳川家康)が人質として今川家の駿府(静岡県静岡市)へ赴く際、石川与七郎数正(17歳)も供の者「七人小姓」に選ばれたのだろう。
両者は幼くして苦楽を共にすることになった。
その際、数正は「其の随一」とも記されていて、最年長だったことを窺わせる。
──天文十八年、東照宮、駿河国に赴かせ給ふの時、供奉の人を選はる。数正、其の随一なり。(『寛政重修諸家譜』「石川数正」)
駿府における竹千代一行には辛い暮らしがまっていた。
「三河の田舎者」と馬鹿にされ、誰もがみな「一日でも早く三河へ帰りたい」と望んだという。
しかし、数正だけは、そう思わなかった。
「第二の京都」と呼ばれた駿府の町並みは、「都路」と呼ばれた故郷・土呂(一向宗土呂殿本宗寺の寺内町・愛知県岡崎市福岡町)の町並みに似ていて、違和感がなかったのだ。
しかも、である。
元服して「数正」と名乗っており※3、「岡崎五人衆」内藤義清の三女とも結婚、天文23年(1554年)には長男・石川康長にも恵まれた。
駿府とは、石川数正にとって「思い出の地」であり「第二の故郷」であったのだ。
※2「野寺」:地名。後に「三河一向一揆」を起こした「三河三ヶ寺」(三河国における本願寺教団の拠点である野寺本證寺(安城市野寺町)、佐々木上宮寺(岡崎市上佐々木町)、針崎勝鬘寺(岡崎市針崎町))の本證寺がある場所。小川町の南。
※3 石川数正の元服は、駿府へ行く直前という説もあり
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