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【ヴォルテール】
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フランス宮廷に入る
1740年代になると、ヴォルテールの思想的な敵対者が減っていき、入れ替わりにポンパドゥール夫人など彼に好意的な人物が力を強めていきます。
そしてヴォルテールはベルサイユ宮殿に出入りできるようになり、アカデミー・フランセーズの会員にも認められました。
しかし、ヴォルテールは前述の通り、旧来の宗教観や価値観に懐疑的な人物。
信仰心の厚い王妃マリー・レグザンスカや、斬新な考えを嫌う人々からは敬遠されました。
「権力を持てたとしても、ここは居心地が良くない」
そう感じたヴォルテールは、王妃と口喧嘩したことがきっかけでベルサイユを離れることになります。
この頃にはシャトレ夫人に別の恋人ができ、別れざるを得なくなりました。
一方でヴォルテールに別のところからお呼びがかかります。
プロイセンの王フリードリヒ2世です。
フランスを離れてプロイセンそしてスイスへ
ルイ15世夫妻とは真逆に、ヴォルテールの思想に共感したフリードリヒ2世は、喜んで彼をベルリンに迎えました。
当時のプロイセンは戦間期であり、無神論者も宮廷の中枢に参加していた頃。
フランスの真逆の空気だったといえます。
ヴォルテールは2年ほどここに滞在しましたが、次第にフリードリヒ2世の独裁的な面が気になり始めました。
王もヴォルテールの散財ぶりが気に入らず、亀裂が入っていきます。
そして1753年、ヴォルテールははベルリンを去りました。
フランスには帰りづらかった彼は、しばし迷った末にスイス・ジュネーヴへ落ち着きます。
この頃のスイスは、既に中立国として歩み始めていました。
とはいえ、宗教改革で知られるカルヴァンの後継者という面もありましたので、プロテスタント=キリスト教の原点に立ち返ることを重視してもいます。
前述の通り、聖書に対して穿った見方をすることもあったヴォルテールをよく思わない人もいました。
加えて、プロテスタントはその根底に禁欲主義的なところがあります。
そのためジュネーヴでは演劇が禁止されていたのですが、ヴォルテールがジュネーヴで買った屋敷では演劇が行われることもありました。
これがお叱りを受け、ヴォルテールはジュネーヴを出てフランス側の国境にあるフェルネ―に家と土地を購入し、フランスとスイスどちらにでも逃げられるようにしています。
賄賂を使ってでも見逃してもらおうとはしないあたりに、彼の矜持がうかがえるような、そうでもないような。
フェルネーでやっと落ち着けたヴォルテールは、詩や小説の執筆に邁進していきました。
1755年のリスボン大地震に関する詩や、小説『カンディード、または楽天主義』など、多くの名作がここで誕生しています。
屋敷では音楽界や演劇を催しつつも、各地の友人知人と積極的に文通を行いました。
さらにフェルネ―村の工場を支援して経済を潤わせたのですから、地元の人々から慕われるのは至極当然。
そして信頼を勝ち取ったヴォルテールは、これまでと一風変わった仕事を引き受けることになります。
意外なことに、それは“冤罪事件の解決”でした。
冤罪事件の解決者として
1762年3月、ジャン・カラスというプロテスタントが処刑されていました。
彼は自分の息子がカトリックになりたがったので殺した、という罪に問われ、無実を訴え続けたのですが認められず、処刑されてしまったのです。
カラスの無実を信じていた人々も少なからずおり、ヴォルテールに真相の解明を依頼してきました。
ヴォルテールは最初気乗りしなかったそうですが、調査してみるとカラスの無実はほぼ確定と考えられ、こう結論づけました。
「カラスはカトリック側の偏見による不当な裁判で殺された」
そしてポンパドゥール夫人や貴族の知人にこの件を伝えて協力を依頼。
『寛容論』を書いて世間にも訴え、公的なカラス事件の再捜査を求めたのです。
これらを受けて1765年3月に再審が行われ、カラスの名誉は回復されました。
するとヴォルテールのもとに、似たような事件の解決を願う人々が続々と集まって来るようになります。
彼らにとってヴォルテールは、「不正に遭ったとき力になってくれる人」というイメージが固まっていたのです。
ときには身の危険を感じることもありましたが、ヴォルテールは助けを求める人々に協力し、名声を高めていきました。
パリへ帰還
ルイ15世が崩御すると、宮廷でもヴォルテールに対する態度が変わり、1778年にパリへ招かれました。
パリ市民は熱狂的に歓迎し、一日に何百人もの客が彼の元を訪れたといいます。
しかし、ヴォルテールはこのとき84歳。
ただでさえ長旅で疲れていたのに、これほどの来客を受けて体力が消耗しないはずもなく、一時期寝込んでしまっています。
その中でも彼の脚本による舞台『イレーヌ』が上演される事になり、コメディー・フランセーズへ足を運んで稽古から立ち会いました。
上演当日は彼の胸像と本人に月桂冠が捧げられ、場内も大いに盛り上がったといいます。
これに満足したのか、舞台の成功で興奮しすぎたのか、あるいは疲労から回復しきれなかったのか。
「イレーヌ」の上演から2ヶ月後、1778年5月30日にヴォルテールはパリでその生涯を閉じました。
一時はスイスとの国境付近に埋葬されていたそうですが、革命の最中にパンテオンという霊廟に改めて葬られています。
「パンテオン」というのはギリシア語で神々や全ての神々を祀る神殿のことなのですが、キリスト教圏ではそれだとマズいので、「偉人を祀る墓所」という意味合いになりました。
固有名詞ではないので、ローマにも同名の建物があります。
パリのパンテオンは当初教会として建てられ、革命中にフランスの偉人を祀る聖堂として性格を変えていたので、問題がなかったと思われます。
他にも、キュリー夫妻やルソー、ユーゴー、大デュマなど、近代フランスの偉人と呼べる人々がここに眠っている場所です。
こういったメンツと共に眠っているとすると、見えないどこかで、ヴォルテールは今も文学や政治談義を繰り広げていそうですね。
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【参考】
デジタル版 集英社世界文学大事典
岩波 世界人名大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)