1764年4月15日はポンパドゥール夫人の命日です。
フランス王ルイ15世の愛人として有名な人ですので、ご存じの方も多いでしょうか。
フランス王家には「公妾(こうしょう)」という制度がありました。
一夫一妻厳守のカトリック国……であるはずなんですが、「公」とつく通り法的に国王との関係を認められた女性です。
家柄が問われず、王が気に入った女性がなるもので才覚ある人も多く、結果として女性官僚的な役割も果たしています。
最初の公妾とされるアニェス・ソレルは、ときの王・シャルル7世にいたく気に入られて愛人となりながらも、王妃マリー・ダンジューを立ててうまくやっていた……なんて話もあります。
法律で許されてなくても、この時代のフランス貴族は「愛人がいてナンボ」という状態。
ポンパドゥール夫人の場合は、なぜ一国の政治を担うような立場にまで登りつめたのか。
振り返ってみましょう。

ポンパドゥール夫人/wikipediaより引用
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ポンパドゥールはフランスの地名から
実は彼女、元は貴族でも王族でもありません。
平民の中のお金持ち、つまりブルジョワ階級の生まれです。
本名はジャンヌ=アントワネット・ポワソン。本名や後々の功績からすると「歴史を動かしたもう一人のジャンヌ」といえないこともなさそうですね。
裕福ゆえに貴族と同等以上の教育を受けて育ち、成長するにつれて美貌と共に学力も上がっていきました。
20歳で結婚して社交界デビューを果たすと、その美貌により当時の王様・ルイ15世の目に留まり、公妾として認められて政治の世界にも足を踏み入れます。

ルイ15世/wikipediaより引用
このときポンパドゥール夫人という名を与えられました。
ポンパドゥールというのはフランスの地名からきている称号で、彼女個人の名前とは関係ありません。
「愛人」というと夜のお相手ばかりを連想するかもしれませんが、日本で大奥の女性達が表の老中に匹敵することがあったのと同様、ポンパドゥール夫人のような公妾も政治上で大きな役割を果たすことがありました。
自らの才能と頭脳について自負していた彼女は、政治に関心の薄いルイ15世よりもはるかに積極的かつ上手にフランスの舵取りをしていきます。
王妃を立てて、宮中の地位を確立
ポンパドゥール夫人は王妃マリー・レグザンスカへの気配りも欠かしませんでした。
マリーはポーランド貴族出身の女性です。
父スタニスワフ・レシチンスキは一時期ポーランド王になったこともありました……が、追い落とされてマリー一家はスウェーデンで亡命生活を送り、その後フランスのアルザス地方に移り住んだという苦労人です。
その後なんやかんやあってルイ15世の妃になったのですが、後ろ盾が弱いこともあり、その立場は安定したとはいえませんでした。

マリー・レクザンスカ/wikipediaより引用
幸いなことに子供には多く恵まれるも、ポンパドゥール夫人が来る前から王は愛人を多く抱えており、孤独な状況だったのです。
ポンパドゥール夫人はマリーを立て、王妃の好むものをこまめに贈り、良い関係を保とうと努力しました。
マリーもポンパドゥール夫人のことを割り切り、うまくやっていく道を選びました。
1756年にルイ15世は「王妃の女官」という地位をポンパドゥール夫人に与えています。
マリーの内心としては面白くなかったでしょうが、良い方向に解釈するならば「ポンパドゥール夫人を王妃のそばにいさせて、不満や金の動きを把握し、表向きは王妃との仲を良好なものにしておきたい」という感じでしょうか。
非難を受けつつも、フランスを代表する女性に
ポンパドゥール夫人はトンデモナイ贅沢もしていました。
あっちこっちに豪華なお屋敷を建てさせたりとか。
その浪費振りにはもちろん非難の声もありましたが、芸術家や建築家、学者たちのパトロンとして惜しみない支援も行ったため、後世から見るとプラマイゼロといったところでしょうか。
女性にしては珍しく、複数の肖像画で本を手にしていますので、本人としてはデキる女性としてアピールしたかったのでしょうか。
メディアがほとんどないこの時代、肖像画はイメージ戦略としてとても重要な手段でした。
彼女の功績として最も大きいのは「外交革命」と呼ばれる出来事です。
長年相争っていたオーストリアとの和解のことで、プロイセンという新興国家に対抗するためのものでした。
「◯◯戦争」の連続になってややこしいので大きく省略しますと、両国は当時の300年前から少なくとも6回は戦争もしくは一歩手前の状態になっています。
そんな状態の国同士が手を組んだら革命的な出来事ですよね。
ここにロシアの女帝・エリザヴェータが入り、オーストリアのトップも女帝マリア・テレジアということで三人の女性が協力する形となりました。

マリア・テレジア/Wikipediaより引用
【三枚のペチコート作戦】ともいいます。
ペチコートはスカートの透け防止・形を整えるするための下着のことで、当時はドレスのこともさしていました。
女性が名実ともに国の主だったロシアとオーストリアはともかく、愛人に過ぎないはずのポンパドゥール夫人がいかに世間から重視されていたかがわかりますね。
ちなみにプロイセンの王様・フリードリヒ2世は大の女性嫌いで、自分の妻にも冷淡だった上、一時はマリア・テレジアとお見合いする・しないの話になっていたことがあります。
三枚のペチコート作戦は、ある意味「男と女の戦い」ともいえるわけですね。
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