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【ポンパドゥール夫人】
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七年戦争終結の翌年に亡くなる
三枚のペチコート作戦により協力体制を築いたフランス・ロシア・オーストリア。
1756年8月からプロイセンとの間で【七年戦争】が始まります。
結果だけ簡単に述べますと、プロイセンを滅ぼす一歩手前まで行きながらそうはならなかった……というスッキリしない結末となりました。
エリザヴェータが急死し、オーストリア軍と仲違いしたため、ロシア軍が途中で引いてしまったからです。
オーストリアとしてはこの前の戦争で奪われた領土を取り戻せなかったので「ぐぬぬ」状態に終わりましたが、フランスからみると当面の脅威を取り除けたことになりますから、まあまあといったところだったでしょうか。
そして、七年戦争が終わった翌1764年、ポンパドゥール夫人は肺の病気で亡くなってしまいます。
享年42。

ルーブル美術館に所蔵されているポンパドゥール夫人/Wikipediaより引用
彼女の影にすっかり隠れてしまうほど存在感も政治への関心も薄かったルイ15世も、これには大いに悲しんだそうです。
夜のお相手としての関係は終わっていましたが、公私共に何かと頼りにしていたようで「20年来の友人」とまで言っていたとか。
晩年にはナポレオンと最初の妻・ジョゼフィーヌのような関係だったのかもしれません。
また、王妃マリー・レグザンスカもポンパドゥール夫人の死を悼み、長いこと礼拝堂で祈りを捧げたといいます。
感情的には面白くなくても、王を補佐し、フランスの危機を救ったことには感謝していたんでしょうね。
正式な夫は「フランス一有名な寝取られ夫」
こうしてポンパドゥール夫人は歴史に名を残したわけですが、本来の夫であるシャルル=ギヨーム・ル・ノルマン・デティオールとの関係まではうまく行きませんでした。
そりゃそうですよね。
一応、夫妻の間には二人子供がいたのですが、どちらも夭折してしまい、さらに「フランス一有名な寝取られ夫」とまで言われた彼は、一生妻を許しませんでした。

シャルル=ギヨーム・ル・ノルマン・デティオール/wikipediaより引用
ポンパドゥール夫人とルイ15世が夜のお付き合いがなくなった後も、シャルルは復縁を拒み、他の多くの女性と関係を持っていたそうです。
そして彼女が亡くなってからそのうちの一人と再婚して田舎に引越し、静かに暮らしたとか。
フランス革命の時には一度捕まり、後に釈放されてパリで亡くなっています。
ルイ15世やフランスにとって彼女が大きな役割を果たしたことは間違いないですし、ポンパドゥール夫人自身も満足していただろうと思います。
しかし「本来の夫を踏みにじった末の出来事」だと、なんとも言い難いですね……。
公のためには個人的な事情を犠牲にせざるを得ない場合がある、というのはよくある話ですけども。
ちなみに、ポンパドゥール夫人の名は意外なところにも残っています。
日本の三昔くらい前のヤンチャな少年たちの髪型を「リーゼント」と呼んでいますが、サイドの髪を流すスタイルのことで、特徴的な前方の膨らみの部分を「ポンパドゥール」というのです。
もちろんポンパドゥール夫人から取られたもので、彼女があの「前髪を膨らませて後ろでまとめる」スタイルを作り、それを真似た人々がいたのでした。
フランスの公妾や王妃はファッションリーダーとしての立場もありましたので、才色兼備なポンパドゥール夫人の髪型が流行るのも当然ですね。
まさか彼女も、極東の若者に取り入れられるとは思わなかったでしょう。
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長月 七紀・記
【参考】
阿河雄二郎/嶋中博章『フランス王妃列伝―アンヌ・ド・ブルターニュからマリー=アントワネットまで』(→amazon)
日本大百科全書(ニッポニカ)