1793年12月7日は、デュ・バリー夫人ことマリー=ジャンヌ・ベキューが亡くなった日です。
漫画『ベルサイユのばら』などでは悪人枠で描かれておりますが、彼女自身も時代に揉まれた一人。
その生涯を最期まで振り返ると、非常に心苦しくなるものもあります。
ルイ15世の公妾として知られる彼女は、一体、どんな一生を過ごしたのか?
本記事では名字の「ベキュー(途中からデュ・バリー夫人)」で振り返ってみたいと思います。
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素行の問題で解雇され娼婦同然の暮らしに
ベキューは、フランス北東部にあるヴォクルールという町に生まれました。
ジャンヌ・ダルクの故郷であるドンレミ村(現在はドンレミ・ラ・ピュセル)の北、車で20分程度のところにある町です。
母はアンヌといい、私生児としてべキューを産んだとされます。
アンヌはベキューの弟を産んだ直後に駆け落ちしたため、姉弟は叔母に引き取られて育ちました。
金融家と再婚した後、アンヌは二人を引き取るために現れているので、捨てたわけではなかったようです。
このときベキューは7歳。
幸い、義父からとても可愛がられ、修道院で15歳まで教育を受けられたそうです。
修道院を出てからは、ある家の侍女として働いていましたが、「素行の問題」で解雇されてしまいました。
おそらくは主人かその家族、あるいは屋敷内の男性使用人と関係を持ってしまった……とかそんな感じでしょうね。
その後はしばらく娼婦同然の暮らしを続け、17歳のときに洋裁店でお針子として働き始めたことが彼女の運命を変えます。
貴婦人の生活と引き換えに夜の接待を仰せつかる
時期は不明ながら、この店で働いていた頃にデュ・バリー子爵に囲われたとされているのです。
この貴族がまた変わった(?)人で、自分の屋敷でベキューに貴婦人のような生活を与える代わりに、貴族や学者などを屋敷に連れてきて、ベキューに夜の接待(ソフト表現)をさせたとか。
その接待の中で、彼女は社交界に必要なマナーや話術を身に着けたようです。
子爵なりの教育だったんですかね。あるいは、最初から公妾となれるような美貌の持ち主を探して教育し、宮廷に送り込むことを目的にしていたのでしょうか。
そして一通り身につけたところで、ルイ15世に紹介されて公妾となりました。
1769年、べキュー26歳のときです。
寵愛していたポンパドゥール夫人を喪って五年ほど経っていたため、王の目にはベキューが大変魅力的に映ったようです。
そしてデュ・バリー子爵の弟と形だけの結婚をし、ベキューは「デュ・バリー夫人」という名前を得て社交界デビュー。
うまく行けば、彼女はしばらくこの世の春を謳歌できたでしょう。
しかし、時代はそれを許しませんでした。
ルイ15世の娘やマリー・アントワネットからガッツリ嫌われ
デュ・バリー夫人が王の寵愛を得るようになって間もない1770年、フランスの運命に大きく関わる人がやってきました。
ルイ15世の孫である王太子ルイ・オーギュスト(のちのルイ16世)の妃として、オーストリアから嫁いできたマリー・アントワネットです。
広く知られている通り、マリーはオーストリア女帝マリア・テレジアの末娘。由緒正しいお姫様なわけです。
さらにマリーは敬虔なカトリックであり、母からも貞操観念を厳しくしつけられていました。
後にマリーとスウェーデン貴族フェルセンとの不倫云々の噂が立ちますが、おそらくはそれ以前からあったマリーへの反感からきたものだと思われます。
フランスでは「正式な夫婦以外のパートナーを持つことは嗜み」という価値観が定着していましたが、オーストリアではそうではありませんし。
マリーが初めてデュ・バリー夫人を見たのは、結婚式前の夕食の席。
デュ・バリー夫人の美しさに目を留めたマリーは、側付きの女官に「あの方はどんな役職なの?」と尋ねました。
その女官は「国王陛下を楽しませることです」と答えたとか。当時14歳のマリーにいきなり「公妾」と教えるのはさすがに憚られたためでしょう。
マリーはその真意が分からず「では、あの方は私のライバルですね」と無邪気に答えたのだとか。
よく”常識知らず”とされるマリーですが、”夫とその家族に気に入られること”が重要であることはわかっていたともとれます。
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