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【デュ・バリー夫人】
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処刑人アンリ・サンソンに泣いて命乞いした
デュ・バリー夫人は、案の定、革命派に見つかってしまいました。
そしてあっさり捕らえられてしまいます。
一度、逃げおおせたにもかかわらず、なぜ危険だらけのフランスへ舞い戻ったのか?
その理由は今なお不明です。
「自分の城に置いてきた宝石を取り戻すため」という説もありますが、二年も経って、わざわざ自分で取りに行きますかね?誰か人を雇うことはできなかったのか。
当時は「特権階級憎し」での殺人や破壊行動がまかり通っていましたので、そのうちの一人に見せかけて持ち出させるということもできたはずです。
「他の亡命貴族を援助する資金が枯渇したから」と考えれば辻褄は合いますが、それにしたって自ら足を運ぶ必要があったのか。
自分でなければ絶対に取り戻せない何かがあったんですかね。
余談ですが、マリー・アントワネットの悪評の一つであり、冤罪でもある「首飾り事件」のネックレスは、ルイ15世がデュ・バリー夫人のために発注したものでした。
それぐらい高価なものを王から貰っていたら、真っ先に持って逃げているでしょう。
「急いでいたから何も持ち出せなかった」と考えることもできますが、それにしても二年はちょっと。
何にせよ、デュ・バリー夫人は捕まった年の12月7日にギロチン台へ送られ、処刑されました。
![](https://storage.bushoojapan.com/wp-content/uploads/2017/11/82cd50dab0689bd6be68d4d9bff81bfb.jpg)
ギロチン処刑の様子/wikipediaより引用
ギロチンの前で、彼女は顔見知りだった執行人アンリ・サンソンに泣いて命乞いをしたそうです。
デュ・バリー夫人がまだ町のお針子だった頃、二人はスリリングな恋愛関係にあったとされています。
実に嫌な状況で再会したものです。
フランスでは死刑執行人は世襲制となっており、その職務上忌み嫌われるものでしたが、アンリは要望と体格に恵まれていたのでモテたとされます。
彼の正体を知らなかったとある貴婦人が、うっかりレストランで食事をともにして後で激怒した……なんて話もあるほど。
彼は1793年には54歳になっていましたので、ナイスミドルというか老紳士といった感じになっていたことでしょう。
アンリも知人の泣き叫ぶ姿に心が痛んだのか、デュ・バリー夫人の処刑は息子に代行してもらったといいます。
![](https://storage.bushoojapan.com/wp-content/uploads/2017/04/5d306a39aa1113429c47dbc54e117ef1-1.jpg)
シャルル=アンリ・サンソンの肖像画(イメージ)/Wikipediaより引用
革命後の恐怖政治が長続きしたのはナゼか
マリー・アントワネットなどの肖像画を描いた女流画家ルイーズ=エリザベート・ヴィジェ=ルブラン(ルブラン夫人)や、アンリ・サンソンは、フランス革命で起きた悲劇の処刑をこんな風に評しております。
「処刑された人々の全員が、デュ・バリー夫人のように命乞いをしていれば、あの恐怖政治はもっと早くに終わっていただろう」
ルイ16世やマリー・アントワネットが粛々として処刑台に登ったことで、かえって群衆の鬱憤が晴れず、
「誰か別のヤツをもっと苦しめて殺してやろう!」
という気分になってしまったのかもしれません。
![](https://storage.bushoojapan.com/wp-content/uploads/2017/05/45066e01838b5ca30049448a36773898.jpg)
ギロチン台へ連れて行かれるマリー・アントワネット/Wikipediaより引用
これは少々飛躍になりますが、マリー・アントワネットにあまり健全でない遊びを教えて浪費を促進させたポリニャック伯夫人を捕らえられなかったことも、デュ・バリー夫人に対する革命派の態度が硬化した一因かもしれません。
ちなみにポリニャック伯夫人はマリーの勧めでスイスへ亡命し、その後、病死しています。結果、同じくらい浪費していた女性であるデュ・バリー夫人に矛先が向いたのではないでしょうか。
まあ、革命派の気持ちもわからないでもありません。
フランス革命も、国王夫妻が命乞いや号泣する様を見物人に見せていたら、そこで憂さ晴らしが済んで、歯止めがかかったのでしょうか。
これこそIFの話ですけれども。
時代も状況も違いますが、1938年に日本で起きた「津山事件」の犯人の言動や遺書にも似たような点があります。この事件をおおざっぱに説明しますと
【病気や兵役不合格によって、長い間村の中で白眼視されていたとある青年が、同じ村の住人に恨みを積もり積もらせ、30人も殺してしまった】
というものです。
2008年に新たな証言が新聞で発表されたので、聞き覚えのある方もおられるでしょうか。『八つ墓村』のモデルになったことでも有名な事件ですね。
この事件の犯人の言動や遺書には、
「とある家の主人が必死に命乞いしたところ、犯人は『そんなに命が惜しいなら助けてやる』と言って立ち去った」
「犯行直後、犯人が自殺する前に『殺さなくてもいい者まで殺してしまった』と書き残している」
といった冷静さや、後悔の念がみえます。
記録はなく、お墓もなくて真相は闇の中
他の革命の犠牲者たち同様、デュ・バリー夫人の墓と呼べるものは存在しないようです。
おそらくは共同墓地に投げ込まれてしまったのでしょう。
代わりに、ルイ15世がデュ・バリー夫人に与えた城(通称『シャトー・マダム・デュ・バリー』/シャトー=フランス語で「城」)があり、ここが彼女を偲ぶ地となっているようです。
現代ではワインの名前にも使われていますね。
処刑の直前に戻ってきたのもここだと思われますが、ヴェルサイユ宮殿や国王夫妻が処刑されたコンコルド広場とあまりにも近すぎて……だからこそ謎が深まるわけですが。
帰国の理由は、彼女の直筆の日記や手紙が見つかるまでわからなさそうです。
この時代の女性の識字率はかなり低いですけれども、デュ・バリー夫人は教育を受けたことがありますし、社交界では手紙のやり取りは必須。
イギリスへ亡命した貴族の誰かに手紙を送ったことくらいはあったでしょうから、その中のどれかに何か書かれている可能性はあるかもしれません。
見つかったら、とんでもない値段がつくでしょうね。
どこかの貴族やその末裔の家で忘れられたままのほうが良いのかもしれませんが。
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長月 七紀・記
【参考】
安達正勝『マリー・アントワネット フランス革命と対決した王妃 (中公新書)』(→amazon)
安達正勝『死刑執行人サンソン――国王ルイ十六世の首を刎ねた男 (集英社新書)』(→amazon)
日本大百科全書(ニッポニカ)