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【デュ・バリー夫人】
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周囲を巻き込むデュ・バリー夫人vsマリー
最初の印象こそ悪くなかったものの、出自も立場もまるで正反対なデュ・バリー夫人と王太子妃マリー・アントワネット。
いずれ対立するのは当然の成り行きでした。
王太子妃に近づきたい、そしてデュ・バリー夫人のことを気に入らない人たちが、マリーに接近したことも理由のひとつです。
中には、ルイ15世の娘であるアデライード王女、ヴィクトワール王女、ソフィー王女もいました。
そりゃまぁ、父親の愛人を好きになる娘はそうそういないですよね。しかも王族と庶民、かつ相手は娼婦出身ですし。
彼女たちはマリーの輿入れを祝う花火大会にも一緒に出かけており、始めから王太子妃と親密になるつもりだったと思われます。
デュ・バリー夫人のこともその一環として利用したのでしょう。
また、男性貴族たちもデュ・バリー夫人派とマリー派に分かれていました。前者がオーストリアとの同盟反対派、後者が賛成派でもあります。
しかし実際に嫁いできたからには、どうにかしてマリーとうまくやっていかなければならないわけで……。
デュ・バリー夫人のもとにもマリーのもとにも、ご機嫌伺いやら、遊びに誘うやら、贈り物をするやらといった人々が多く出入りしました。
それらに加え、マリーの母マリア・テレジアが娼婦や愛妾を嫌っていたため、マリーのデュ・バリー夫人嫌いはかなり感情的かつ激しいものだったといわれています。
この「女の冷戦」とでもいうべき空気は、宮廷の他の人々にも当然わかっていました。
しかし、マリーは王太子妃。国王であるルイ15世の意向には逆らえません。
デュ・バリー夫人がルイ15世に
「私は何もしていないのに、王太子妃に無視されているのです」
と訴えると、王はマリーへ
「デュ・バリー夫人に声をかけてやってほしい」
と言いました。
それでもマリーは躊躇っていましたが、これをきっかけに同盟がポシャってはたまりません。
そう考えた誰かがマリア・テレジアにも伝えたらしく、女帝が手紙でマリーを叱責。
義父と実母に言われては仕方なく、マリーは1772年1月1日にデュ・バリー夫人へ声をかけることになったのです。
身分の低い者からより身分の高い人へ声をかけることはご法度だったので、状況を改善するにはマリーが折れるような形を取るしかなかったのでした。
といっても、その内容は「本日のベルサイユは大層な人出ですこと」というもの。
宮殿へ新年のあいさつに来た人々を指してのものだったため、デュ・バリー夫人の存在を許したとはいいがたかったでしょう。
それでも表向きは対立が終わったことになっています。
この後、マリーはデュ・バリー夫人に対し二度と声をかけなかったそうですが。
ルイ15世の死
デュ・バリー夫人は他の貴族たちからは好かれていたそうです。
公妾とはいえ、明るい性格だったのが良かったのだとか。
当時、一定以上の身分や財産を持つ人は「サロン」という私的な交流グループを持っていました。サロンとは客間を意味する言葉です。
例えば「◯◯公爵は美術をお好みで、同じ趣味の人や画家・彫刻家を呼び集めている」といった具合に噂が広まっていき、輪ができていくわけです。
そしてお金が集まるところでは政治の話も出やすいというわけで、政治派閥の会合といった面も持つようになりました。
デュ・バリー夫人にもそういったお付き合いがあったものと思われます。
しかし、そもそも彼女の富と影響力はルイ15世の庇護によるもの。
デュ・バリー夫人が宮廷に来た時点で、ルイ15世は既に59歳でした。当時の感覚では寿命を意識する時期です。
「その時」がやってきたのは1774年、デュ・バリー夫人31歳のときでした。
ルイ15世が天然痘で危篤に陥ったことにより、デュ・バリー夫人に修道院への退去命令が出されたのです。
これは死に際しての贖罪という面もありましたが、おそらくは王に勧めた者がいたのでしょう。
ルイ14世の公妾たちも、晩年に秘密結婚したとされるマントノン夫人を除いて、ほとんど似たような経緯をたどっていますし。
とはいえ、デュ・バリー夫人の場合は割と早く修道院を出てパリ郊外で暮らすようになっているので、厳重に監禁されたというわけではないようですが……。
せっかくイギリスへ亡命したのに帰国し、案の定……
その後もフランスやイギリスの貴族の愛人となって生活していました。
王の公妾という立場を味わった上で、今更昔のように自ら働く事も考えられなかったでしょうし、落ち着く先があったのは幸運といえます。
マリー・アントワネットとしては「卑しい娼婦がいなくなってすっきり」といった心持ちだったでしょう。
しかし、デュ・バリー夫人がいなくなったことはじわじわと彼女に影響していきます。
それまで宮廷に出入りしている女性で最も目立つのは公妾でした。良くも悪くも全ての視線が公妾に注ぐおかげで、王妃が注目されることはなかったのです。
事実、ルイ14世と15世の王妃は今日でもほとんど注目されません。
それぞれマリー・テレーズ・ドートリッシュ、マリー・レクザンスカと言いますが、ハッキリと覚えている方はなかなかのフランス史好きな方ではないでしょうか。
その代わりに14世の公妾モンテスパン夫人やマントノン夫人、15世の公妾ポンパドゥール夫人の名はよく知られています。
彼女たちが王妃よりも目立っていたことの証明です。
「王妃よりも公妾が目立つ」という慣習があった状況で、その公妾がいなくなったのですから、貴賎を問わずマリー・アントワネットに視線を注ぐのは当然のことでした。
また、ルイ16世は、先代達(14世や15世)のような漁色家ではなく、マリーだけを通したこともかえって悪いことになってしまいました。
古い創作や伝記では「ルイ16世は太った醜男だったため、マリーはフェルセンと不倫した」というような流れになっていますが、実際の彼は190cm超えで筋肉質だったといわれています。
ということは、16世に男性的な魅力を感じ、近づこうとした貴婦人もいたはずです。
しかし彼は公妾を作りませんでした。
信仰上の理由からなのか、マリーに気を遣ったからなのか、はたまたマリーの散財を見逃す代わりの節約だったのか……全部でしょうかね。
もしも16世夫妻が「公妾は王妃の盾にもなる」ということを理解していたら、名目上の公妾を置いたでしょうし、革命時にマリーがあんなにも憎まれ、息子への性的虐待をでっちあげられるなんてこともなかったのでは?
ちなみに、デュ・バリー夫人とマリー・アントワネットにはもう一つ接点があります。マリーのお気に入りの場所として知られているプチ・トリアノンです。
実はここ、ルイ15世がデュ・バリー夫人と過ごしていた場所でした。マリーはおそらくそこまで知らなかったのでしょう。
それとも知っていたからこそ、悪評の原因となる大工事を行うついでに、自分好みの田舎風に仕立てたのでしょうかね。
話をデュ・バリー夫人に戻しましょう。
公妾という大役を終えた彼女は静かに暮らしていましたが、ルイ15世の死から15年経った1789年、かのフランス革命が起きます。
デュ・バリー夫人自身はおそらく世間から忘れられかけていたと思われますが、革命の波に巻き込まれた軍人の中に、彼女の愛人がいました。
そのため1791年にはイギリスに亡命しています。その後は、同じようにフランスから逃げてきた貴族たちを援助していたとか。
しかし何を思ったのか、1793年3月に突如、自ら帰国してしまうのです。
そんなことをすれば捕まってしまうのでは?
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