1851年10月19日は、マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランスが亡くなった日です。
彼女は、ルイ16世とマリー・アントワネットの娘――つまり「フランス最後の王女」とでも呼ぶべき人。
弟のルイ17世と違って天寿を全うすることはできたのですが、それでも幸せとは言いがたい、過酷な人生を送りました。
それは一体どのようなものだったのか?
マリー・テレーズの生涯を振り返ってみましょう。
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プライド高い王家の娘でも気遣いできる少女
マリーの名前は、祖母であるマリア・テレジアのフランス語形です。
母親のファーストネームと同じなのでややこしいですけれども、以下「マリー」とだけ書いた場合はこの王女のこととさせていただきます。
当時、ルイ16世夫妻には子供がなく、世継ぎとなる男子の誕生が待ち望まれていました。
フランス王室のしきたりに従い、マリー・アントワネットは大勢の立会人の中で娘を出産したのですが、あまりにも人が多かったために余計疲労してしまった……といわれています。
そんな中で生まれたのがお姫様だったので、一部の人には残念がる声もありました。
しかし、国王夫妻が問題なく子供を作れるとわかっただけでも、ひとまずは安心というもの。
そのまま男子に恵まれなくても、ルイ16世には弟が二人いましたので、ブルボン家の断絶が差し迫っていたわけでもありませんしね。
ルイ16世夫妻の間にはこの後、以下の子供たちに恵まれました。
1781年:長男 ルイ=ジョゼフ
1785年:次男 ルイ=シャルル(のちのルイ17世)
1786年:次女 マリー・ソフィー
ソフィーは残念ながら1歳にもならないうちに亡くなってしまいましたので、マリーは弟ふたりのお姉さんとして育つことになります。
彼女たちはブルボン家とハプスブルク家という正真正銘の王家のハイブリッド。そのためマリーも小さい頃からプライドがかなり高かったといわれています。
しかし、自分の足を踏んだ養育係を気遣って怒らなかったりと、心配りもできる少女だったようです。
マリーは母から「モスリン」というニックネームをつけられ、愛されていました。
モスリンは当時流行していた薄手の布地のことで、マリー・アントワネットもこの布で作った軽いドレスを愛用していました。
通常のドレスと比べてあまりにも簡素なので、貴族たちの中には「下着のようではしたない」とする声もあったようです。
マリー・アントワネットが娘にこの呼び名を付けたのは、軽やかで柔らかい雰囲気からでしょうかね。
ルイ16世もマリー・アントワネットも政治的センスはあまりありませんでしたが、人の親としては優れていました。
マリーは弟たちとともに、両親の愛を全身に浴びて育っていきます。
母のお気に入り画家であるヴィジェ=ルブランも、マリーが母や弟たちとともに過ごしている様子を描いた作品を残しています。
マリーの外見的な特徴としては、肖像画からすると子供の頃は父に似てやや丸顔、長じてからは母によく似た細面です。
身長については「母親ほど高くない」という評価があります。マリー・アントワネットは154cmだったといわれているので、マリー・テレーズは現代基準だと結構小柄ですね。
マリーの大人になってからの肖像画は、細面ということもあって背が高そうに見えます。
革命の波に飲まれた王女
ブルボン家が存続できていれば、マリーもいずれどこぞの王侯貴族に嫁いでフランスとの橋渡しをしたのでしょう。
しかし現実には、家族とともにフランス革命の荒波に飲まれることになります。
革命前夜となる1789年の三部会開催とそれに伴う混乱の中、同年6月4日にルイ=ジョゼフが病死。
マリーはもうひとりの弟ルイ=シャルルとふたりきりの姉弟になってしまいました。
そして同年7月14日に民衆が廃兵院とバスティーユ牢獄を襲撃し、革命が勃発。
同年10月には民衆の食料危機に対応しようとしない王室に対し、激怒したパリの民衆がベルサイユ宮殿を襲撃しました。
これによってマリーを含めた国王一家はパリのテュイルリー宮殿に連行され、ベルサイユには二度と戻れませんでした。
民衆の怒りを買った主因のひとつは王妃が散財しまくっていたことですが、それは主に出産前であり、幼いマリーは知る由もないこと。
なぜ民衆がこれほどまでに怒りをぶつけてくるのか、彼女には理解できなかったでしょうし、両親や近臣たちも語らなかったと思われます。
また、バスティーユ襲撃からぴったり一年経った1790年7月14日の「連盟祭」で、ルイ16世は「憲法に従う」ことを宣誓しており、民衆と手を取り合う姿勢を見せていました。
ルイ16世としてはある程度の自由と権力が残るのであれば……という考えだったのかもしれません。
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