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【マリー・テレーズ】
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ヴァレンヌ事件
1791年6月、徐々に自分たちの権利が縮小されていくことに耐えきれなくなったルイ16世夫婦は、一家での亡命を計画します。
お膳立ては旧知の仲であるスウェーデン貴族フェルセンの手で行われ、テュイルリー宮殿脱出からほんの数時間はうまく行きました。
しかし、馬車の手綱をとっていたフェルセンが道に迷ったり、護衛とうまく合流できなかったことなどから旅程が遅れに遅れ、結果としてヴァレンヌという村で民衆に見つかってしまいます。
そして憎悪の視線の中、マリーたちはパリへ連れ戻されることに……。
亡命未遂となったこの【ヴァレンヌ事件】を「国王に裏切られた」と受け取った民衆は、もう容赦しません。
マリーたちはタンプル塔という狭い牢獄に一家揃って押し込められてしまったのです。
とはいえ、ここでは両親や弟、そして叔母のエリザベートと間近に過ごすことができ、家庭生活としては悪くなかったとされています。
マリーとルイ=シャルルは両親や叔母から勉強を教わったり、歌を歌ったり、裁縫をしたりしていたとか。
おそらくはそうした子供たちを見て、大人たちも励まされていたことでしょう。
特にエリザベートは一家を支え励まし、洗濯までしてくれていたので、マリーも励まされたと思われます。
しかし1793年1月に父ルイ16世、同年10月に母マリー・アントワネット、1794年5月に叔母エリザベートと、近しい人々が次々に処刑されていきました。
そして、唯一残った肉親である弟ルイ17世(ルイ=シャルル)とも引き離されることになります。
ルイ17世は下の階にいたため、泣いている声がマリーの部屋まで聞こえてきていたとか。
彼の惨状を考えると、それを聞いていたマリーも相当辛かったでしょうね……。
叔母エリザベートの遺品である毛糸で編み物をしていたことや、カトリックを厚く信仰していたことが彼女の正気を保たせたといわれていますが、心の支えがあったとしても、たった一人でよく耐えたものです。
この頃マリーは10代半ばになっており、精神的にもだいぶ成熟していたからでしょうか。
母マリー・アントワネットの遺言書にも、娘について触れている箇所はありません。
「子供たちを残していくのが気がかりです」といったように、ルイ17世と一緒に言及されている部分はあるのですが。
母親は息子に目が行きがちだから・幼い息子のほうがより気にかかったからであって、「娘のことはどうでもよかった」ということではないと思いたいところです。
「娘はもう大きいし、気丈だから私が心配しなくても大丈夫」と考えていたのでしょうか。
遺言書はエリザベート宛だったのですけれども、検閲に引っかかって彼女には届きませんでした。
エリザベートも程なくして処刑されたためか、どこかのタイミングでロベスピエールの元に渡り、彼が処刑されるまではそのままになっていたようです。
そしてルイ18世に渡されたといいます。
捕虜との交換でオーストリアへ
ここで少し、当時のフランスやヨーロッパの状況を見てみましょう。
フランス革命は、ヨーロッパの多くの国々に「民衆の力への懸念」を抱かせました。
王政がスタンダードだった当時、自分の国でも同じような革命を起こされたらたまらないからです。
そのため武力でフランスを押し込めようとした国が多々あり、当然、フランス革命派はこれに対抗するために兵を集めようとします。
しかし、この時点で革命が盛り上がっていたのは、パリを始めとした都市部のみ。
農村部からすれば、「なんか都会の方で物騒なことになってるけど、ウチには関係ないよね?」といった雰囲気がありました。
フランスは一応「フランス王国・ブルボン家」のもとで統一されてはいたのですが、地方ごとの特色や言語がまだまだ残っており、パリとは精神的に隔絶されていたのです。
そのため革命派が「外国に対抗するため徴兵だ!」と言い出したとき、農村部の人々は反発。
「なんでウチと関係ない革命のために人手を取られないといけないの???」
こうした対応になったのには、もう一つ理由があります。
革命派があまりにも旧体制の否定・脱却を急ぎすぎて、革命に従わないカトリックの聖職者をとっ捕まえたり処刑したりしていたことです。
当時の庶民の生活にとって、教会と聖職者はなくてはならないものでした。毎日の時報の鐘や、冠婚葬祭の際は必ず教会の世話になっていたのです。
日常の生活習慣が「都会で勝手にやっている革命とやら」のためにぶち壊されたのですから、そりゃ地方の人々が怒るのも当然のことです。
そんなわけで、1793年3月にフランス西部のヴァンデ地方で大規模な反乱が発生。
続いて革命派の中でもジャコバン派vsジロンド派の争いが起き、ロベスピエールが実権を握ります。
ロベスピエールは自分の立場を確立するため、反対派を次々に処刑していきました。
ろくに裁判もしないわ、処刑される人に同情しただけで罪人にされるわで、当然ロベスピエールへの反感も高まります。
そしてロベスピエールも1794年のテルミドールのクーデターでギロチンに送られ、ようやく革命の波が収まり始めます。
力だけでは事を収束できないどころか、かえって大きくしてしまったという皮肉な結果でした。
そしてテルミドールのクーデターに加わっていたポール・バラスという貴族により、マリーとルイ17世の待遇が改められることになりました。
バラスによってルイ17世は医師の診察を受けたり、新たな心ある世話人をつけられたりしましたが、時既に遅し。1795年6月8日に亡くなっています。
マリーにも1795年7月に新しい世話役の夫人がつけられました。彼女はマリーの境遇を気の毒に思い、マリー・アントワネットやエリザベート、そしてルイ17世の最期を知らせたといいます。
もちろんそれはマリーにとって大きな衝撃でしたが、「ブルボン家の生き残り」としての矜持を持たせることにもなったようです。
そして同じ頃、フランス政府とオーストリア皇帝・フランツ2世との間で
「マリー・テレーズとフランス人捕虜の交換」
が合意され、同年12月にマリーは母の故郷であるオーストリアへ向かいました。マリー17歳のときのことです。
女性であったことと、フランツ2世は母方のいとこだったことが幸いしたと思われます。男子だった場合は、弟と似たような運命をたどったかもしれませんね……。
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