マリー・テレーズ

マリー・テレーズ/wikipediaより引用

フランス

フランス最後の王女マリー・テレーズ(マリー・アントワネット娘)の過酷な生涯

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流浪の王女、しかし矜持は失わず

マリー・テレーズに対し、フランツ2世は比較的優しくしてくれました。

フランツ2世/wikipediaより引用

しかし、ナポレオンの動きや世間の情勢により移動を余儀なくされ、マリーはロシア・スウェーデン・イギリスを渡り歩きました。

ここからマリーは、ほぼ一生流浪生活を続けることになります。

流浪生活で唯一良かったことは、父方の従兄ルイ・アントワーヌ(アングレーム公)とロシア領内で結婚したとき、叔父のルイ18世から両親の形見の結婚指輪を受け取れたことでしょうか。

豊かで幸せだった時期を思い起こして、余計に辛かったかもしれませんが。

ロシア皇帝・パーヴェル1世もマリー夫婦に同情したのか、ダイヤモンドや金、防寒具などを贈ってくれています。

が、やはり情勢の変化によりロシアにもいられなくなり、次はワルシャワへ行くことになりました。

フランスから近いプロイセン=ドイツ一帯にブルボン家の人間を入れることは、ナポレオンを刺激することになるため、もう少し遠くて当時プロイセン領になっていたポーランドへ行くことになったのです。

この処置には、プロイセン王妃ルイーゼが骨を折ってくれています。

プロイセン王妃ルイーゼ/wikipediaより引用

ルイーゼは大のナポレオン嫌いであり、マリー・アントワネットの幼なじみの娘でもあったため、力を貸したいと思ったのでしょうか。

ワルシャワではマリーがカトリック信者であったことなどが幸いし、それまでと比べてかなり良い暮らしができたようです。

余裕ができた分は他のフランス亡命貴族や修道院への支援に回していたといいますから、この辺は母譲りの優しさや「ノブレス・オブリージュ」かと思われます。

が、そのうち人が増えすぎてお金が足りなくなり、パーヴェル1世から送られたダイヤモンドなどを売らねばなりませんでした。

その後は、再度ロシアに行った後、スウェーデン経由でイギリスへ向かうことになりました。

イギリスではロンドンの北東にあるバッキンガムシャーという地域の城を借り、やっと落ち着くことができました。

ロンドンの社交界にも参加し、多少なりとも穏やかに暮らせたようです。

また、マリーはイギリス滞在中、35歳のときに一度だけ妊娠したことがあります。

しかし流産してしまい、その後再び子供を授かることはありませんでした。

現在でも高齢出産になる年齢ですから、当時はかなり難しかったでしょうね……夫婦仲は良かったそうなのですけれども。

とはいえ、女系でもブルボン家の血を直接引く人がいるとなれば、王党派の旗頭にされかねません。特に男子だった場合には。

この後の世界情勢やマリーの立場を考えると、どちらが幸せだったのかよくわかりませんね……。

 


ナポレオンいわく「ブルボン家唯一の男性」

母国フランスに戻れたのは、ナポレオンがロシア戦役に敗れた後、1814年のことでした。

ナポレオンによって出世した人々には心を許さず、苦難をともにした人々だけを信じていたといいます。そりゃそうだ。

また、このくらいの時期から弟ルイ17世を名乗る人物が現れ、マリーに面会を求めてくるようになったそうです。

マリーはその誰とも会おうとはしませんでしたが、やはりどこかで生きていて欲しいと思っていたらしく、あちこちの関係者に弟の行方を問い合わせています。

結局、検死を行った医師が亡くなってしまったため、彼女がルイ17世の心臓を受け取ることはできなかったのですが……。

ルイ17世/wikipediaより引用

ナポレオンがエルバ島から脱出してからの「百日天下」の際は、ブルボン家の軍に向かって大演説をしてみせたともいいます。

これを評したナポレオンいわく「彼女はブルボン家唯一の男性」だとか。皮肉なのか讃えてるのかどっちなんでしょうね。

ちなみに、母マリー・アントワネットも、革命が起きてテュイルリー宮殿に国王一家が幽閉されていた頃に

「国王のそばにいる男性は王妃だけだ」

と言われたことがあります。

やはり心身ともによく似た母娘だったようですね。

ちなみに、「百日天下」の際、当時の国王ルイ18世はとっとと亡命してしまっていました。

この人はヴァレンヌ事件の際別方向へ逃げていたこともありますし、「機を見るに敏」と言えば、一応褒め言葉になりますかね。

1824年には義父がシャルル10世としてフランス王になり、繰上げでマリーの夫が王太子に。当然マリーも王太子妃となりました。

しかし、シャルル10世は絶対王政の時代に戻すかのような政策を数多く実施したため、1830年に七月革命を起こされ、退位させられてしまいました。

これまた当然のことながら、マリーたちもその地位を失うことになります。

その後はイギリスに向かった後、フランツ2世を頼って当時オーストリア領だったプラハへ引っ越しました。

さらにモラヴィア(チェコ東部)を経てゴリツィア(イタリア北東部)に移り住み、ここで義父と夫を看取っています。

こうしてマリーは亡くなるまで王族としては質素な生活が続き、1851年肺炎で亡くなりました。73歳でした。

長寿ではあるものの、本来は生活苦などという言葉は文字の上ですら知らないような身分の人です。

時代の激動に翻弄され続け、ひとつところに落ち着くこともできなかったと思うと、彼女が可哀想過ぎますね……。

彼女のお墓はイタリアのゴリツィアというところにあるようです。

ルイ16世とマリー・アントワネットの棺、そしてルイ17世の心臓はフランスのサン=ドニ大聖堂にありますので、一家のうち彼女だけが死後も離れ離れということなんですよね。

夫がゴリツィアで亡くなっているので、夫婦揃っての埋葬を選んだのでしょうか。

もしも実家の家族と一緒に葬られたいのであれば、そのような遺言を残したでしょうし。


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長月 七紀・記

【参考】
池田理代子『フランス革命の女たち〈新版〉―激動の時代を生きた11人の物語―』(→amazon
両角良彦『反ナポレオン考―時代と人間 (朝日選書)』(→amazon
ほか

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