ジャンヌ・ダルク/wikipediaより引用

フランス

中世フランスの英雄ジャンヌ・ダルクの生涯~なぜ彼女は火刑という最期を迎えたのか

1431年5月30日、ジャンヌ・ダルクが火刑に処されました。

現代日本でも「フランスの英雄」とか「聖女」などとして有名ですね。

しかし彼女が歴史に登場するのは1429年5月8日に決着したオルレアン包囲戦、つまり世に名を轟かせてから、わずか2年で殺されてしまっているのです。

現場の兵士たちから崇められた”聖女”が、なぜこんな酷い最期を迎えてしまったのでしょうか?

今回は、ジャンヌ・ダルクの生涯を見ていくために、まずは百年戦争をサックリ把握していくところから始めましょう。

1854年に描かれた『シャルル7世戴冠式のジャンヌ・ダルク』/wikipediaより引用

 


休戦を挟みながらも120年続いた百年戦争

「百年戦争」を一言で表すならば、イングランドとフランスによる戦争です。

実際は120年ほどの期間に休戦を挟んでいるので、戦闘が120年続いていたわけではありません。

では、百年戦争の理由は何か?

というと【領土+玉座争い】です。

そもそもの理由は実に単純なのですが、それまでの経緯がこんがらがっているせいで非常にややこしく見えるのがヨーロッパの戦争の共通点ですね。

この頃はまだどこの国も王様に絶対的な権力がなく、各国の境界線も曖昧だったことがより拍車をかけました。

流れを単純化すると、以下のようになります。

【5行でわかる百年戦争勃発】

①フランスの王様が亡くなる

②当時のフランス王家と血縁があったイングランドの王様が「じゃあ次のフランス王は当然俺な!」と言い出す

③フランスの貴族たちが大反対

④間に挟まれたフランドル地方(現オランダ・フランダース)が「ウチはイングランドから羊毛輸入して毛織物作ってるから、戦争されると困るんですけど泣」と言い出す

⑤イングランドもフランスもお構いナシでドンパチ開始

フランドルの人々からすると商売の元手を人(物)質に取られたときに、国は守ってくれなかったことになります。

そこで「フランスだめだわ、ウチはもうイングランドに味方します!(そんでまた商売したい)」ということで、イングランド側につきました。

百年戦争「ポワティエの戦い」/wikipediaより引用

ややこしいのが、現代イメージする「フランス」と、当時の「フランス王国」は合致しないことです。

現代でいえばフランス地方名になっている「ボルドー」や「ブルゴーニュ」などは、当時別個の国。

一応序列ではフランス王>>>各公国の大公、ということになっていたものの、それぞれ軍隊も持っていたのでそう簡単にはいきません。

さらに、あっちこっちの領主や王様が亡くなる度に戦闘が始まってしまう――そんな国家レベルの学級崩壊状態になったせいで、全体の戦争が終わるまでに120年もかかってしまったのでした。

もちろん両国共に、ズルズルと戦争を長引かせるのは得策ではありません。

開始から40年ぐらい経った頃にペストが大流行し、「お互いボロボロだし、そろそろ戦争やめませんか」という話になったこともあります。

しかし、その直後に両国の王様が亡くなり、再度、大混乱に陥ってしまいました。

その時点ではイングランドが圧倒的に有利。

現在のフランス領の半分近くを占拠していたので、いずれ国内がまとまればフランス全土がイングランド領になってもおかしくないような状態でした。

フランス、大ピンチです。

 


ジャンヌ 神の子 不思議な子

そこで突如現れたのがジャンヌ・ダルクでした。

12歳のとき初めて「神の声」を聞いたとのことで、彼女によると天使と聖人がこう語ったというのです。

「神が私にフランスを救えと仰っている」

使命を感じた彼女は、まず話を真面目に聞いてくれる貴族を探しました。

当初は門前払いしていた貴族も、ジャンヌが

「この日こういう地名のところでフランス軍が負けるだろう」

という予言をし、見事的中させてからは彼女を信用するようになりました。

情報伝達技術のほとんどない時代ですから、遠方にいたジャンヌが情報を分析して勝敗を予測できたはずはありません。

そもそも、農民だった彼女が軍事的な分析をできた可能性は極めて低いでしょう。

当時としては「神のお告げ」がなければできない……と判断するには充分だったわけです。

勝つか負けるか――2つに1つの大博打だっただけかもしれませんが、まあそれはそれで。

ともかくジャンヌは何人かの貴族を通じて、当時、即位前だったシャルル7世へ謁見することになります。

シャルル7世/wikipediaより引用

彼女を一目見たシャルル7世は思いました。

「これは本物かもしれない……」

そしてジャンヌへ騎士の装備を与え、軍に同行することを許可。

こうなると不思議なものでジャンヌ・ダルクの名前は「聖女」としての名声が生まれ始めます。

フランス軍の間でも「聖女様が一緒に来てくれるんだってよ!!」ということで、彼女の存在そのものが士気高揚の一因になりつつあったのでした。

 


たった10日でオルレアン解放!

聖女が味方についたことで、テンションアゲアゲのフランス軍。

イングランド軍が包囲していたオルレアンという街に到着します。

現代のルートで距離換算すると、パリから南へ約130kmのところです。

この地の領主が敵の捕虜になっており、その弟がオルレアン奪回を目指して頑張っていました。

しかし領主の弟は、なかなかジャンヌを信用してしません。

彼女は冷たい視線を無視して軍議に参加、戦場へ出向きます……といっても女性ですし「神のお告げ」を聞く者として、剣を取って戦うのはふさわしくありません。

そこでジャンヌは「フランス軍の旗を持ち、味方の士気を保つ役目を果たした」といわれています。

それまで慎重にも程がある消極策を取っていたフランス軍は、ときには命令違反を辞さないジャンヌ・ダルクの強攻策により、見事オルレアンの奪還に成功。

到着してからわずか10日ほどで大仕事をやってのけます。

・ジャンヌの指揮によって、ほぼ1日に一つという超ハイペースで砦を奪い返したこと

・彼女が首に矢を受けても生きていたこと

・彼女が常に前線で指揮を取ったこと

こうした活躍っぷりにより、彼女は現場の兵士達から熱狂的な支持を獲得。

オルレアン包囲戦のジャンヌ・ダルク/wikipediaより引用

そのうち彼らの中から「やっぱりジャンヌ・ダルクは神の使いなんだ!」と称える人が現れ始め、いつしか「オルレアンの乙女」と呼ばれるようになりました。

ジャンヌの出身は「ドンレミ村」という小さな農村なんですが、今なおオルレアンの名を冠して呼ばれているのはこのためです。

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