ギロチンで斬られた生首を持つ、首のない女性人形はマリー・アントワネットなのか――と、今なお話題のパリ五輪「開会式」。
マリー・アントワネットといえば「パンがないならケーキを食べろ発言」でお馴染みですが、その“誤解”は以下の記事で解消していただき、
マリー・アントワネットはなぜ処刑された?パンがなければ発言は完全に誤解だった
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今回、注目したいのは、彼女の息子であるルイ17世です。
「あれ? ルイ16世で終わりじゃないの?」と思われた方もいらっしゃるかもしれません。
「◯世」というのは基本的に「親や先祖と区別をつけるため」なので、ルイ16世の息子が同じ”ルイ”ならば、王様であろうとなかろうと17世になるわけです。
中国や日本では、同じ名前でも名前の後に(◯代)や官位・通称をつけたり、文章の中で「◯◯時代のナントカさん」と言うことが多いですかね。
武王(周)とか、伊達政宗(九代)とか。
本記事ではパリ五輪の余波を受けて注目されるルイ17世の生涯を振り返ってみましょう。
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「愛のキャベツ」と愛称をつけられ……
ルイ17世が生まれたのは1785年3月27日。
命日が1795年6月8日ですから、10年しかこの世に生きていなかったことになります。
この時点で何となく想像のついた方もいらっしゃるかと思いますが、一言でまとめるとすれば「幸せを感じたことが一瞬でもあったのだろうか?」というほど酷いものでした。
彼はルイ16世とマリー・アントワネットの次男で第三子。
姉はマリー=テレーズで、兄はルイ=ジョゼフといいました。
姉は兄弟の中で最も長生きしますが、兄は1789年に亡くなってしまったため、そこからはルイ17世が王太子となります。
1786年には妹・ソフィーも生まれたものの、一歳にもならない頃に亡くなってしまい、ルイ17世は末っ子として扱われたようです。
特に母マリーの寵愛は深く、「愛のキャベツ」と愛称をつけて可愛がっていたとか。
フランスではキャベツ=目に入れても痛くないものという認識らしく、有名どころだとドビュッシーも愛娘に「キャベツちゃん」とつけています。
お菓子のシュークリームも「クリームの入ったキャベツ(シュー)のようなお菓子」が語源だそうで、よほど可愛いものとキャベツとの連想が強いんでしょうねえ。
1789年のフランス革命で運命が一変
容姿も性格も愛らしかったルイ17世は使用人や貴族たちにも愛され、将来有望と思われました。
多少神経質なのが玉にキズではあったようですが、賢さの裏返しでもあったことでしょう。
しかし、1789年にフランス革命が勃発!
王族一家の運命は激変します。
当時4歳のルイ17世は、健気にも「ママを許してあげて!」と民衆に向かって叫んでいたそうです。
これにはさしもの革命軍も哀れに思ったのか、監禁先の衛兵やその子供たちと仲良くなり、両親を安心させました。
当初は革命派も王政の完全廃止ではなく、立憲君主制を目指してため議会には王と王妃、そして王太子だったルイ17世も列席。
ルイ16世が憲法を守る旨を宣誓し、マリー・アントワネットが幼い17世を抱え上げて議員たちに見せると、拍手喝采が起こったとか。
また、パリの記章である赤と青の間に、ブルボン家を表す白を入れた三色旗も用いられるようになります。
つまりは「パリ市民が王家を取り囲む」という構図なわけです。
これらのことから、市民たちに"当初は"王家根絶の意図がなかったことがわかります。
もしもこの時点で国王夫妻が
「国民は我々を殺したがっているわけではない」
ということに気づき、重視していたら、彼らもフランスも全く異なる道を歩んだでしょう。
ヴァレンヌ逃亡事件
実際はこの後、国王や王統、貴族は、その希望をひとつずつ潰していきます。
フランス革命が起こった理由のひとつとして、天候不順による食料不足がありました。
にもかかわらず、バスティーユ陥落後も王と王党派は軍によって革命を沈静化させるため、国中の兵をパリに集めてしまいます。
軍隊は人間の大規模な集まりですから、当然、水や食料が必要。
ベルサイユ宮殿ではその軍を歓迎するパーティーが開かれたのですから、餓えている民衆がさらに怒るのは当然のこと。
そしてバスティーユ陥落からおよそ3か月後の1789年10月、怒りを爆発させたパリの一般女性たちが手に手に武器を取り、ベルサイユを目指しました。
「ベルサイユ行進」と呼ばれている出来事です。
これまた市民たちが自発的に集まったものであり、後から国民議会が作った平民の軍隊「国民衛兵」が続くという形になっています。
ルイ16世は行進してきた人々の代表と会見し、ベルサイユの食料庫を開放することを約束しました。
しかしそれだけでは収まらず、翌日宮殿内へ押し入った民衆によって、国王一家はパリのテュイルリー宮殿へ移されることになります。護衛はラファイエット率いる国民衛兵でした。
王室以外でも下手を打った人たちがいました。
反乱を起こした兵士に対し、王党派の貴族が強硬手段に出た1790年8月のナンシー事件などによって、民衆の応答葉に対する印象は悪化の一途をたどっていったのです。
そして決定打となったのが、1791年6月20日に国王一家が起こした【ヴァレンヌ逃亡事件】です。
この時期のフランスは、自国の王政が脅かされることを懸念した周辺国家から軍事的圧迫を受け、非常に緊張した状況。
「王妃が実家のオーストリアと連絡し、オーストリア軍を手引している」なんて噂もあったほどです。
そんな中で国王一家が揃って逃亡してしまったのですから、民衆への印象は最悪でした。
幼い17世には責任がないものの、国民からすれば
「国中みんなが苦しんでいるときに、国王たちが逃げた!」
「やはり俺たちは裏切られていたんだ!」
「王妃の実家オーストリア軍と組んで、俺たちを殺そうとしている!」
としか見えなかったこの事件の後、国王一家の扱いは目に見えてひどくなるのです。
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