「作家や芸術家に変わり者が多い」というのはおそらく万国共通の認識でしょう。
普通の人と違ったものの見方や感性を持ち、それを何らかの形にできるからこそそういった職業が務まる、といったほうが正しいかもしれません。
ただ、その中には「さすがに、それはアウトでしょ……」という凄まじい人もおりまして。
1862年8月22日に誕生した音楽家のクロード・ドビュッシーもその一人でしょう。
『海』『夜想曲(ノクターン)』『2つのアラベスク』などなど、代表作を並べるだけでも多すぎるほどの名作曲家ですが、実はとある困った傾向を持っていました。
恋愛関係です。
不倫や二股など、第三者を巻き込むことがしょっちゅう。
それぞれのお相手と付き合っていた頃、どんな曲ができたのかという角度からドビュッシーを見てみましょう。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
音楽を始めたきっかけは伯母
どちらかといえば気弱な父と、激しめの気性を持つ母のもとに生まれたドビュッシー。
芸術的な一族でもなく、大きな特徴もないごくごく一般的な家でした。
なにせ、長男のドビュッシーを小学校に通わせることもできなかったというのですから、その平凡さたるや。
少年時代のドビュッシーが音楽に興味を持ったのは、カンヌに住んでいた父方の伯母クレマンティーヌを介して、イタリア人音楽家からピアノのレッスンを受けられたからでした。
また、故郷北フランスと異なる青い空や青い海を見たことも、ドビュッシーの心に焼き付いたかと思われます。後々彼の代表作に「海」という曲があるからです。
さらに、父のツテで詩人のポール・ヴェルレーヌの義母であるモテ夫人からピアノを習うことができるようになりました。
モテ夫人は早いうちにドビュッシーの才能を見抜いたこと、二人の相性が良かったことにより、一年後にはパリ音楽院の試験を受けられるまで上達。
こうして1872年10月、まだ10歳のドビュッシーは堂々とパリ音楽院(コンセルヴァトワール)へ入学したのでした。
ドビュッシーはここでさらに正しく美しいピアノを習い、辛抱強く見守ってくれる先生たちにも恵まれて、ぐんぐんとセンスを磨いていきます。
当初はピアニストを目指していたようですが、そこはさすが国立の音楽院。周りには彼を上回る腕前の持ち主がゴロゴロおり、ちょっとやそっとでは太刀打ちできなかったのです。
また、試験で好みに合わない課題曲を弾かなければならないことも、あまりやる気が出ない理由だったようです。
しかし音楽が好きなことは変わりなかったので、作曲について学び始めました。とはいえ、作曲の基礎こそドビュッシーの嫌いな「お約束」だらけですので、ここでも反発しています。
課題では散々な結果でしたが、ここでも先生に恵まれました。ドビュッシーが書いた和声(ハーモニー)の課題に
「正当なものではないが、よくできている」
と言ってくれたのです。
当時の音楽院の講師たちも、
「この斬新なセンスを持つ少年を、どうにか音楽で食べていけるようにしてやりたい」
と考えたらしく、貴族の城で女主人のためにピアノを弾く仕事を紹介してくれました。
このおかげで、ドビュッシーは富裕層の暮らしを垣間見ることができました。
それからまもない1880年、チャイコフスキーのパトロンでもあったロシアの資産家・メック夫人がドビュッシーを「旅に同行してくれるピアニスト」に指名してくれるという幸運に恵まれます。もちろんバイト代つきです。
メック夫人は家族とともにドビュッシーをフランスやイタリア、そしてロシアの自邸に連れていき、気前よくチャイコフスキーの最新曲なども教えてくれました。
「異国の風景や音楽に触れることは良い勉強になる」と思ったことでしょう。
若くして不倫開始
帰国後は伴奏やピアノのレッスンなどで少しずつ収入を得ながら勉強を続け、ここで彼の誇れない方の偉業が始まってしまいます。
マリー=ブランシュ・ヴァニエという人妻と交際(不倫)してしまうのです。
おそらく、これ以前にも恋愛自体はしていたでしょうけども、のっけから不倫ってレベル高いですね。
マリーは10代の子供ふたりを持つ母親でもありましたが、ドビュッシーは彼女にすっかり惚れ込んでいたようです。
なんと彼女に27曲もの曲を献呈しています。ラブレター代わりだったんでしょうね。
マリーとの仲がうまく行ったからか、ドビュッシーは試験にも身を入れるようになりましたが、学校での評価はあまり上がっていませんでした。
メック夫人を訪ねてロシアへ行ったり、マリーの別荘に出かけたりと割と好きなようにしていたので、教師たちの印象が悪かったせいかもしれません。
パリ音楽院の卒業試験とみなされていたローマ賞の結果もかんばしくなく、1884年に三回目の挑戦でやっと受賞しました。
ローマ賞はその名の通り、受賞者に奨学金つきのローマ留学権が与えられます。
それはマリーとの別れを意味していたため、ドビュッシーはゴネにゴネて1885年1月にやっとローマへ向かいました。
他の受験者がこの経緯を知ったら激高したでしょうね。
ローマに行きはしたものの、休みのたびにマリーへ会いに行っているため、真面目に留学していたかというとアヤシイところがあります。
※続きは【次のページへ】をclick!