ドビュッシー

ドビュッシー/wikipediaより引用

音楽家

音楽家ドビュッシーの女性遍歴があんまりだ~泥沼不倫 結婚 二股何度も繰り返す

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同棲相手が自殺未遂 でも懲りない

お金を手にしたドビュッシーは、当時交際していたガブリエル・デュポンという女性と一緒に暮らし始めました。

愛称は「ギャビー」といい、献身的なタイプの人だったようです。

しかし、このあたりからドビュッシーは浮気を繰り返すようになってしまいます。

その引き金が何だったのかはよくわからないので、なおさらギャビーが哀れです。

1897年2月、ギャビーは悩み抜いた末に拳銃自殺を図りました。

幸いにして命は助かって再び同棲しましたが、1898年に別れを選びました。おそらく自殺未遂の後もドビュッシーの態度が変わらなかったんでしょうね……。

この頃には、4つ下の音楽家エリック・サティとの親交も始まっています。

両者ともに「既存の形式や法則にとらわれない音楽」を目指していたためか、週一ペースで会うほど親密だったようです。

サティに対しドビュッシーが

「君はもう少し形式を大切にした方がいい」

と言い、サティが「梨の形をした3つの小品集」を書いて

「これには”形”があるだろう」

と言った……なんてエピソードもあります。

一休さんか!とツッコミたくなりますが、これも仲が良かった表れなんですかねぇ。

そして1899年には、マリ・ロザリー・テクシエという女性と結婚しました。彼女はドビュッシーより10歳下で、愛称は「リリー」。

リリーはギャビーと知り合いだったので、当初はドビュッシーの求愛を拒んでいたそうなのですが、あまりにもしつこかったので折れたようです。

しかしこれもほんの数年のことでした。

1904年、ドビュッシーはエンマ・バルダックという人妻と付き合い始めてしまうのです。

日本では日露戦争開戦の年ですが、ドビュッシーの私生活も戦争状態でした。

エンマの子供がドビュッシーの教え子の一人で、そこから親密になってしまったようです。インモラルにもほどがあるやろ。

これを知ったリリーは当然のことながらショックを受け、ギャビーと同じく拳銃自殺を図ります。

今回も幸いなことに命は助かりましたが、ドビュッシーはやっぱり反省しませんでした。リリーからすっかり心が離れてしまい、1年後に離婚した上、途中から慰謝料をすっぽかすというクズっぷりです。

ちなみに作曲の方はというと『夜想曲』を書いたのがこの頃でした。

フランス語だと『ノクチュルヌ』ですが、日本では英語名の『ノクターン』のほうが知られていますね。

夜想曲自体は『夜の風景をイメージして作られた曲』なので、ドビュッシーだけでなく多くの作曲家が書いています。

また、1902年にはオペラ『ペレアスとメリザンド』が好評を博し、「印象派の音楽家」として名を高めました。

有名な管弦楽曲『海』も同時期の作品です。

この曲の初版には葛飾北斎の『冨嶽三十六景』の一部が用いられており、ドビュッシーの趣味がうかがえます。

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子供が生まれて落ち着いたかと思いきや……

いくら作品が素晴らしくても、ここまで素行がクズだと当然評判が下がります。

特に当時のパリ音楽界の主導者だったサン=サーンスがドビュッシーの行いを強く批判したことで、周囲もそれに倣うようになりました。

サン=サーンスは音楽の方向性としてもドビュッシーと対立していたので、そこにスキャンダルが加わったらそりゃあ邪魔しますよね。

そして1905年10月、ドビュッシーとエンマの間に娘が誕生。

ドビュッシーは初めての子供でもあり、「シュシュ」=キャベツちゃんというあだ名をつけて溺愛しました。

それでいてすぐにはエンマと結婚しなかったというのですから、この人の考えていることがさっぱりわかりません。

今度はエンマが粘り、1908年に結婚しています。

シュシュへの父性愛は本物で、娘のために『子供の領分』というピアノ組曲を書きました。

これは後に世間へも公表されて好評を得ましたが、一家を養うお金+リリーへの慰謝料には足りませんでした。

そんな状態だったのでエンマの愛も冷めていき、晩年は心身ともにキツイ状態だったようです。

1909年には体調を崩すようになり、第一次世界大戦の勃発でもショックを受けました。

いつからか直腸がんを患い、1918年3月25日に世を去っています。

晩年には6つのソナタを作る計画を立てていたようなのですが、そのうち完成したのは3つだけ。

他にも未完のオペラ「アッシャー家の崩壊」が見つかっており、やり残しに後悔しながら旅立ったのではないかと思われます。

でも女性関係の言動からすると、「恥の多い生涯を送って来ました」とは思わなかったんでしょうねえ。

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長月 七紀・記

【参考】
上原章江『1冊でわかるポケット教養シリーズ 裏側から見るクラシック作曲家』(→amazon
三枝成彰『大作曲家たちの履歴書(下) (中公文庫)』(→amazon
松橋麻利『ドビュッシー (作曲家・人と作品シリーズ)』(→amazon
日本大百科全書(ニッポニカ)
世界大百科事典
岩波 世界人名大辞典

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