文房四宝

画像はイメージです(紫式部日記絵巻/wikipediaより引用)

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『光る君へ』紫式部や清少納言の執筆活動に欠かせない「文房四宝」とは?

大河ドラマ『光る君へ』の第31回放送で、藤原道長から物語の執筆を依頼されたまひろ。

書く代わりに紙の提供を道長に求めたところ、彼女が以前「越前紙」を褒めていたことを思い出したのか、大量の紙が送られてきました。

現代人にはピンとこないかもしれませんが、あの紙はまさに宝の山です。

当時の貴族にしてみればまさに垂涎ものであり、紙だけでなく硯・筆・墨も合わせて「文房四宝」という言葉もあるほどの高級品でした。

なぜ文房四宝はそれほど大事にされたのか。

東アジアの文人に欠かせぬ宝の歴史を振り返ってみましょう。

筆墨硯紙の文房四宝/wikipediaより引用

 

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書体の歴史

日本語の書き言葉は当初存在しておらず、中国との国交を通して学び、書き記すことを始めました。

そんな両国で、書道の歴史を比較すると、当然、始点は異なります。

中国では、亀の甲や骨に刻んだ【甲骨文字】から始まり、以降【木簡】や【竹簡】に書く、あるいは石碑に彫る文字が生まれました。

広大な中国では字も地域ごとに異なっていて、それを統一したのが秦の始皇帝です。

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始皇帝が文字の統一を進めた結果、以下のような字体が誕生しました。

篆書:始皇帝が制定した【小篆】を元にした字体。印鑑に用いられます。

隷書:篆書をさらに書きやすくした字体です。主に【木簡】【竹簡】に書くためでした。

行書:紙が発明され、筆写することに特化した書体。日本では【くずし字】とも称される、流麗で速記ができる書体です。

草書:行書ほど崩していない、楷書ほどしっかりしていない、その中間にあたる字体といえます。

楷書:草書をさらに洗練させ、見分けがつきやすくなった書体です。現在もっとも目にする機会が多く、一般的な書体となります。

一方、日本の書き文字は、紙へ書写するところからスタート。

成立は古いものの【篆書】と【隷書】が好まれるまでには長い時間がかかっています。

【草書】を日本語の書き言葉として、紙に書く――これが『光る君へ』の時代だと考えて差し支えありません。

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書体についても頭の隅にでも入れて読み進めてください。

日本独自の受容がなされてゆきます。

 

庶民の文字はどう書くのか?

『光る君へ』でまひろや貴族たちが用いる【文房四宝】は前述の通り、高級品です。

では、どれだけの高級品だったか?

それを理解するためには、庶民の暮らしから考えることもヒントになるかもしれません。

ドラマの中で、まひろが“たね”という少女に文字を教える場面では、棒を使い、地面に書いていました。

庶民では、あの程度が精一杯であり、かれらが読み書きする機会はありません。

下級役人であれば、名前や穀物の収穫高といった実用的な読み書きが必要とされ、そうした実践的な筆記具は平安末期から始まる『鎌倉殿の13人』にも登場しています。

ドラマ序盤で、北条義時が米の収穫高を【木簡】に記すため、腰にぶら下げていた竹筒と筆ですね。

【木簡】は削って再利用することが前提であり、凝った書体で書くものでもありません。ちなみに中国とは異なり【竹簡】はありません。

書かれた文字が愛でられるようなことはない、あくまでビジネス文書で用いるものでした。

そんな『鎌倉殿の13人』序盤に出てくる坂東の人々にとって、まひろたちの扱う【文房四宝】は高級品です。

都で勤めを果たす際に見て、ため息をつきながら、自分には縁遠い物だ……と諦めるような、文明の証でした。

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