多くの方が【第二次上田合戦】を思い浮かべるでしょうか。
【犬伏の別れ】や【小山評定】などの劇的シーンを経て、東西バラバラに別れてしまった真田昌幸父子たち。
そんな彼らが地元・信州で激突し、真田は徳川の大軍を撃退――まさしく映画のような展開ですが、実は、関ヶ原には他にもドラマがあります。
慶長5年(1600年)8月22日に始まった【岐阜城の戦い】です。
正確に言えば22日から城付近で【米野・印食の戦い】が勃発し、23日に岐阜城本体への総攻撃となりました。
守備側の西軍武将は、かつて三法師と呼ばれ、清州会議で豊臣秀吉に担がれた織田秀信です。
これに対し、岐阜城へ攻めかかった東軍武将は、秀吉の子飼い筆頭であった福島正則や、岐阜城の城主も経験したことのある池田輝政でした。
池田輝政の父は池田恒興――信長とは乳母兄弟であり、織田家の中でも特別な存在として活躍しております。
いわば信長と関係の濃い武将たちが敵味方に分かれ、よりにもよって岐阜城で戦ったのです。
しかも天下分け目の合戦に大きく影響を与える前哨戦だったのですから、注目しないわけにはいきません。
一体どのような戦いだったのか?
順を追って見て参りましょう。
※以下は第二次上田合戦の関連記事となります
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岐阜城の戦い 城主はあの三法師
関ヶ原の戦いはどのように進んだか?
まずは戦いまでの流れをチャートで確認しておきますね。
①徳川家康が上杉征伐のため会津へ向かう
②その途中で石田三成が挙兵
③全国の武将たちは東軍・西軍のどちらにつくか?激しく悩む
④上杉征伐に出ていた家康は【小山評定】と呼ばれる会議を開き、そこまでは一応従ってきた豊臣系武将たちの出方を見る
⑤福島正則や山内一豊ら豊臣系武将の協力を得た家康は軍を引き返し、石田三成といざ決戦へ
東軍にとって大きな起点となったのは【上杉征伐】と【小山評定】ですね。
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小山評定については存在そのものが疑問視されたりしますが、いずれにせよこの間、家康は豊臣系武将の抱え込み工作に努めます。
と、これが徳川方の思惑通り、その中心にいた福島正則や黒田長政などは打倒三成に燃え、自らの立場を賭けて東海道を一気に西上しました。
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一方、畿内で挙兵した石田三成率いる西軍は、大坂や伏見を押さえて東へ進み、伊勢、美濃まで進出してきました。
木曽川を越えればそこはもう尾張。
清洲城主の福島正則は東軍についていましたので、美濃−尾張の国境線である木曽川が東西を分ける最前線となりました。
そのため最も重要となる拠点が、今回のテーマとなる岐阜城です。
同城主の織田秀信は、当初、家康に加勢して会津へ向かう予定でした。
が、準備が間に合わないうちに石田三成の説得によって西軍に与することに。
前述の通り織田秀信とは織田信長直系の孫・三法師です。
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本能寺の変で祖父の信長と父の信忠を失い、その後の清洲会議では豊臣秀吉に神輿として担がれています。
ならば秀吉のことを恨んで、関ヶ原では『東軍一本じゃないの?』と疑問に思うかもしれませんが、秀信は中納言という高い位を秀吉から与えられたりしていて、豊臣家には多少なりとも恩を感じていたようです。
「本気なら城1つ落として来いや!」
東海道を西上し、尾張に到着した福島正則は、焦燥感が止まらなかったでしょう。
本拠地・清洲城の目と鼻の先である美濃は西軍に制圧されており、一刻も早く自分たちから攻撃を繰り出したいところです。
しかし、江戸から一向に動かない総大将の家康。
東軍の豊臣系大名たちは動揺するばかりでした。
そしてそれは、彼らの目付役として同行している徳川家の宿老・本多忠勝や井伊直政も同様でした。
そんな折、徳川家康から一通の書状が届きます。
「本気で徳川家に味方するなら、城の一つぐらい落とすもんじゃないの?」
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待ってました!とばかりに岐阜城へ攻めかからんとする東軍の豊臣系諸将。
家康の娘婿でもある池田輝政と、最前線の福島正則が先陣となり、内府(家康)様への手土産にとばかりに岐阜城攻めに着手しました。
実は戦国時代に幾度も攻略されている
実は岐阜城は、戦国時代に「幾度も攻略されている」という点で珍しい城でもあります(前身の「稲葉山城」を含む)。
特に尾張方面からの岐阜城(稲葉山城)攻略は、この時代の戦国武将なら学習しておくべき重要な戦いがありまして……。
他ならぬ織田信長vs斎藤家の戦いです。
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信長は美濃への侵入を木曽川で待ち受ける斎藤勢に再三に渡って阻まれながら、独立志向の高い斎藤家の家臣を一人ずつ調略し、援軍の来ない稲葉山城(当時)へ一気に攻め入って美濃一国を手に入れました。
その際、織田信長の岐阜城(稲葉山城)攻めの戦略は一貫して以下の3段階を踏んでおりました。
①最小限の損害で木曽川を渡河し美濃に橋頭堡を築く
↓
②できるだけ速く岐阜城下まで進軍
↓
③岐阜城を囲んで攻城
まずは①について見てみましょう。
この尾張―岐阜の自然国境である木曽川は、守備側(の斎藤家)にとっては第一防衛ラインとなります。
一方、攻め手である織田家はここを最小限の損害で通過し、美濃国内に橋頭堡(攻略拠点)を築いて木曽川の防衛ラインを無力化することが重要です。
また、稲葉山城の高所から常に見張られている状態ですから、織田家の兵は木曽川を秘かに渡河しなければなりません。
それには敵の布陣が完了するまでにスピードを持って一気に渡河するか、岐阜城(稲葉山城)からの監視が行き届かない遠く離れた木曽川の下流で渡河するしかありません。
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