池田恒興

池田恒興/wikipediaより引用

織田家

池田恒興の生涯|信長の乳兄弟で織田家の重臣に大出世も最期は家康に討たれ

2025/05/17

1584年5月18日(天正12年4月9日)は織田家の重臣だった池田恒興の命日です。

この恒興、そもそもは織田信長と乳兄弟であり、快進撃を中心で支え続けた重臣の一人。

同じく織田家で重要な一族だった森家の当主・森長可を娘婿にしているほどですので、もしも本能寺の変が起きなければ、そのまま織田政権の筆頭にいたことでしょう。

それがなぜ秀吉の傘下に入り、【三河中入り】で戦死してしまうような事態に陥ってしまうのか?

池田恒興/wikipediaより引用

池田恒興の生涯を振り返ってみましょう。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

 

母は信長の乳母・養徳院

池田恒興が生まれたのは天文五年(1536年)。

父の池田恒利は早いうちに死に別れたようで兄弟はおらず、一方で恒興の母に関する逸話は比較的多く残っています。

恒興の母が、信長の乳母でもある養徳院だったからでしょう。

当時、信長は数えで3歳であり、現代でも卒乳するかどうかの頃合いですが、当時、乳母の乳首を噛み切るという凄まじい子供だったと伝わっています。

結果、いずれの乳母も長続きせず、周りの人々も困り果てていたところ、養徳院が乳母になるとビックリ、この悪癖が不思議と直ったとか。

そのため彼女は”大御乳(おおおち)様”と呼ばれています。

養徳院(池田恒興の母)/wikipediaより引用

一体どんな方法で直したんですかね?

まぁ、単純に彼女の体温とか匂いなどが乳児の性に合ったのかもしれません。

養徳院は後に信長の父・織田信秀の側室にもなり、二人の間には小田井殿という娘も生まれています。

つまり

◆恒興と信長は乳兄弟であり

◆小田井殿と信長は異母兄妹であり

◆恒興と小田井殿は異父兄妹である

ということになりますね。

少々ややこしい関係になりますが、信長と恒興の結びつきが強いことはご理解いただけるでしょう。

 


家臣が信長に斬られる!?

無事に成長した池田恒興は、その後、信長の小姓として仕えるようになります。

まだ若い頃の信長は身内争いが非常に多く、

絵・富永商太

弟・織田信勝(信行)との家督争いも勃発。

恒興は、当然ながら信長を助ける立場にあり、そのせいか「信勝(信行)暗殺の際に直接手を下したのは恒興だ」という話もあるほどです。

事が事ですので史料からの確認は難しいところですが、恒興は信長の”懐刀”のような存在だったのかもしれません。

それだけに織田家では一定の権勢を誇っていたようで、信長の生涯をまとめた『信長公記』にはこんな記録が残されています。

「あるとき、池田恒興の家臣の左介が織田信房の家臣・甚兵衛と揉め、たまたま通りかかった織田信長が火起請で決着をつけ、左介を成敗した」

詳細は以下の記事をご覧いただくとして、

鉄火起請湯起請
恐怖の火起請と信長|信長公記第21話

続きを見る

事の次第をまとめますと、日頃、恒興が信長に引き立てられていたため、家臣である左介まで思い上がってしまい、それを見抜いた信長に成敗されたというものです。

恒興は現場にいなかったようで、その後、特に罰せられたという記述はありません。

また、詳細は不明ながら、恒興はおそらく1550年代後半に結婚していたと考えられます。

妻は後に善応院と呼ばれる女性で、信長の異母兄弟とされる織田信時に嫁いでいました。

しかし信時は男色関係にあった者たちとのトラブルで自害に追い込まれ、残された善応院が恒興へ再嫁することになったのです。

信時が自害したのは弘治二年(1556年)6月のことです。

そして恒興の長男・元助が生まれたのが永禄二年(1559年)または同七年(1564年)とされているため、恒興の結婚は1550年代後半ごろが妥当なのでしょう。

 

姉川の戦いでは徳川の加勢へ

永禄3年(1560年)5月19日、織田家の行く末を決める一大合戦が勃発しました。

【桶狭間の戦い】です。

池田恒興も参戦していたようですが『信長公記』に際立った記述はなく、初めて活躍が記されるのは永禄4年(1561年)における西美濃侵攻となります。

【十四条の合戦】と呼ばれる戦いで敵の先陣を追い散らし、佐々成政と協力して敵将の稲葉又左衛門を討ち取りました。

佐々成政/wikipediaより引用

『信長公記』の著者・太田牛一は、天文23年(1554年)頃に織田家へ仕え始めたとされていますので、それ以前の話題が少ないのは致し方ありません。

火起請の話も、織田家中で語り草になっていたか、牛一が誰かに直接聞いたか、あるいは牛一が信長の果断さを称えるため何らかの話を創作した可能性もあるでしょう。

恒興の立場からして、永禄11年(1568年)の信長上洛にも同行していたと思われますが、記録はありません。

次に恒興が参加したとされる大きな戦は、元亀元年(1570年)【姉川の戦い】です。

浅井朝倉連合軍と織田徳川連合軍が近江で激突した野戦。

このときの恒興は丹羽長秀と共に徳川軍の加勢へ向かい、朝倉軍と戦ったとされています。

丹羽長秀/wikipediaより引用

長秀も織田家になくてはならない将として知られますので、信長が二人を信頼して送り出したのがわかりますね。

こうして戦功を重ねていった褒美なのか。

恒興は元亀元年に犬山城と一万貫を与えられています。

さらに天正2年(1574年)には武田家への押さえとして、東美濃の小里城へ。

対武田との攻防については少しややこしくなりますので、前後の事情も見ておきましょう。

 

武田に備えて小里城をあずかり

【三方ヶ原の戦い】で徳川家康を完膚なきまで打ち破るなど。

西上作戦を敢行していたはずの武田信玄が急に進軍を止め、天正元年(1573年)に亡くなると、次に武田家の当主となったのがご存知、武田勝頼です。

武田勝頼/wikipediaより引用

信玄は今際の際に「ワシの死を三年間隠せ」と遺言したとされますが、実際は隠しきれるはずもありません。

足利義昭が主導していた【信長包囲網】の最大勢力であり、徳川家を苦しめてきた信玄がいなくなる――そんな大転機を迎えて、信長と家康は俄然動きやすくなりました。

信長が、包囲網の手動者であった足利義昭を追放し、さらには浅井・朝倉を滅ぼして当面の憂いを解消すると、家康は武田方の奥平家を調略して味方につけ、武田家の勢力を弱めにかかります。

もちろん、勝頼も黙ってはいません。

東美濃の明知城や遠江の高天神城など、織田・徳川領へ接する地域の城を攻め落とします。

明知城については信長・信忠父子が援軍に向かっていたものの間に合わず、そのため周辺の小里城に池田恒興が置かれ、さらには高野城に河尻秀隆も配置されるなどして、武田家への備えを固めていました。

このあたりのことも、信長公記で触れられています(以下に詳細記事がございます)。

勝頼に包囲されたもう一つの明智城|信長公記第107話

続きを見る

武田との対立が激化する一方、信長には頭の痛い勢力がいました。

長島一向一揆です。

自国・尾張の喉元に刃を突きつけるようにして、隣国・伊勢から織田勢を刺激してくる長島。

元亀元年以降、織田軍は2度にわたって辛酸を嘗めさせられていて、信長の親族や西美濃三人衆の一人である氏家卜全など多くの犠牲者も出していました。

それだけに天正2年(1574年)7月に始まった【第三次長島攻め】は、もう二度と失敗は許されないところ。

当然、池田恒興も参戦し、このときは信長の嫡子・織田信忠の指揮下で動ことになります。森長可も信忠軍に加わっていました。

森長可/wikipediaより引用

しかし、守備側の一向一揆勢も壮絶な覚悟です。

織田軍は、死を厭わないような彼らの反撃に遭い、信長の親族や重臣たちなどが犠牲となり、ついに信長は長島本願寺ごと一揆衆を焼く!という殲滅作戦を強行します。

恒興がこのとき何をしていたのか?

詳細は記録されていませんが、信長の乳兄弟である恒興にとって織田家一門や重臣らの被害は心中穏やかではなかったことでしょう。

佐々成政の息子・松千代丸も討死にしており、成政と同い年の恒興は、同じ親としても何か感じるものがあったかもしれません。

 


村重の謀反

武田との争いを続けながらも西への勢力拡大を進めていた織田信長。

池田恒興は東美濃を離れて近畿方面を担当することになりました。

そこで起きたのた天正6年(1578年)に始まった荒木村重の謀反劇です。

荒木村重/wikipediaより引用

恒興は、池田元助と池田輝政という二人の息子を引き連れ出陣し、村重が逃げた先の花隈城でも、三人それぞれが活躍したと記録されています。

花隈城を攻略し、荒木の残党を始末すると、恒興は村重の旧領である摂津を与えられました。

広さとしては一国まるごとではなかったようですが、摂津における軍事的な指揮権は恒興にあったたようで、この後、高山右近などが指揮下に入っています。

着実に勢力を拡大させていく恒興。

しかし信長と歳が近いということは、自らも息子への世代交代を意識せねばならない時期でもあります。

だからでしょうか。天正10年(1582年)3月の甲州征伐では、元助・輝政ら二人の息子を出陣させ、自らは摂津の留守番役を務めています。

あるいは恒興は、明智光秀と共に羽柴秀吉への援軍として、中国地方へ出陣する予定もあったようです。

明智光秀/wikipediaより引用

このまま順当にいけば、

織田信長

池田恒興

という乳兄弟のラインは、

織田信忠

池田元助・池田輝政

というように両家が世代交代しても続いたことでしょう。

他にも、前述のとおり恒興の娘(せん)は、同じく信長の信頼厚い森家の森長可に嫁いでいましたので、重臣同士の繋がりもガッチリ。

恒興には他にも子供が多くいましたので、彼らが育てばさらに層が厚くなっていたはず。

織田政権では盤石のポジションだったでしょう。

しかし……。

そんな矢先の天正10年(1582年)6月2日、戦国史を一変させる重大事件が勃発します。

本能寺の変です。

 

清州会議

信長とは深い繋がりがあり、織田家の中心人物でもあった池田恒興。

本能寺の変の一報を聞くと、直ちに羽柴秀吉(豊臣秀吉)と合流して【山崎の戦い】に臨んでいます。

摂津は、秀吉が毛利攻めから京へ戻ってくるまでの通り道にあり、池田軍との連携は羽柴軍にとっても欠かせなかったことでしょう。

結果、山崎の戦いでは明智光秀を相手に快勝します。

「山崎合戦之地」の石碑(天王山/京都府乙訓郡大山崎町)

その後の恒興は、明智軍の残党狩りには加わらず、領内を落ち着かせるため動いていたようです。

そして迎えた天正10年(1582年)6月27日の清州会議――今後の織田家をどう運営すべきか?

・織田信雄
・織田信孝

・羽柴秀吉
・柴田勝家
・丹羽長秀
・池田恒興

織田家の二名と重臣の四名で進められたこの会議。

恒興は、織田家の内政に携わりながら、京都や大坂の施政などを担当する役割が与えられます。

そのため織田領の再分配では摂津や兵庫に合計12万石を与えられ、父子三人で分担することになりました。

・池田恒興→大坂

・池田元助→伊丹

・池田輝政→尼崎

一見すると、当初から秀吉サイドにいるように見えるこの池田家。

天正11年(1583年)に始まった柴田勝家vs豊臣秀吉の【賤ヶ岳の戦い】には参加していません。

『賤ヶ嶽大合戦の図』(歌川豊宣)/wikipediaより引用

柴田勝家と織田信孝が秀吉に敗れると、その領地である美濃のうち13万石は池田家に与えられます。

このときも池田家は父子で分かれ、恒興が大垣城、元助が岐阜城に入りました。

 


小牧・長久手の戦い

勝家に勝利し、ますます勢い盛んとなる秀吉。

織田家の権力簒奪に奔走すると、天正12年(1584年)、今度は信長の次男・織田信雄と対立します。

織田信雄/wikipediaより引用

信雄は父の同盟者だった徳川家康を味方につけ、大きな後ろ盾を得ていました。

一方、上方にいた秀吉は西国の将を中心に自陣に加え、さらには美濃の諸将へも手を伸ばしています。

三河・駿河・遠江を本拠地にする家康にとっても美濃は重要なエリアであり、恒興もまた双方から誘いを受けていたようです。

秀吉につくか、それとも家康か――。

恒興は、娘婿の森長可と共に秀吉を選びました。

圧倒的軍勢の秀吉を敵に回すのは危険だと判断したのか?と思ったら、家康との戦いに勝利したあかつきには、尾張一国を与えられる予定だったとか。

恒興と元助が犬山城を攻略すると、家康と信雄は小牧山に陣取り、砦や土塁による長期戦を辞さない構えを見せます。

秀吉も後から合流しましたが、小競り合いが繰り返されるばかりで、なかなか小牧山城の攻略までは至りません。

ならば……とばかりに恒興が献策します。

「家康の本拠である三河を攻め、背後をついてやろうではないか!」

いわゆる【三河中入り】ですね。

中入りで三河攻め! 秀吉vs家康の激突は奇襲から 日本史ブギウギ171話

続きを見る

池田恒興は、森長可を従え、堀秀政や総大将の羽柴秀次らと共に岡崎の攻略へ。

しかし、これが家康に見破られてしまうという最悪の展開を迎えます。

背後をつくのは戦術の基本でもあり、家康ならば当初から予測していてもおかしくはなかったでしょう。

周辺地域の農民などからも情報を得ていたようですし、同時に斥候(偵察部隊)も用いたはずです。

 

次男・輝政は難を逃れ

かくして恒興たちは長久手の地で徳川軍と戦闘。

恒興は鞍に銃弾を受けてしまい、馬から落ちたところに徳川軍の永井直勝の槍を受け、討ち死にしたとされています。

天正12年(1584年)4月9日のことでした。享年49。

元助も同じく徳川家臣の安藤直次に討ち取られてしまっています。

安藤直次/wikipediaより引用

池田家の記録では、二人の討ち死にを知った家臣たちが追腹を切り、二十人以上も後追いしたとか……。

しかし次男の池田輝政は、家臣に説得されて戦線を離脱。

同じく参戦していた三男・池田長吉も、なんとかその場から離れることに成功しました。

当時の池田家にはまだ幼児だった四男の池田長政もいましたが、一歩間違えれば一族全滅の大惨事になるところです。

小牧・長久手の戦いの後、秀吉は恒興の母・養徳院へ宛てた手紙の中でこう記しています。

「恒興殿と元助殿が討ち死になされたのは非常に残念ですが、輝政殿と長吉殿が無事だったのは不幸中の幸いでした。

養徳院殿も善応院殿とともに彼らを支えてくだされば、恒興殿のご供養にもなるでしょう。

私も残された二人を取り立てるつもりです。

今は多忙のため直接お話できませんが、ひとまずお見舞いに浅野長政を向かわせます。

いずれご挨拶に参りますので、昔語りでもできればと思います」

池田輝政/wikipediaより引用

秀吉は恒興個人だけでなく、池田家全体に一目置いていたからこそ、このように丁寧な書き方をしたのでしょう。

冒頭で述べたように、養徳院は信長の乳母でもありましたし、後述するように秀吉にとっても縁戚でしたので、その影響もあると思われます。

また、恒興の長女・せん(森長可の正室)には「女性ばかりの鉄砲隊を200人率いていた」という話もあります。

となると、その母(恒興の妻)である善応院の気性も……といっては失礼でしょうか。

最後に恒興の他の娘たちについても触れておきましょう。

 


女性が強い池田家

次女の若政所は天正11年に羽柴秀次(豊臣秀次)の正室として嫁いでいました。

夫婦仲に関する逸話が特にないので、問題もなかったのでしょう。

秀次といえば後の切腹により、妻子がことごとく処刑された連座事件も頭をよぎりますが、若政所はそれ以前に離縁されていたせいか、亡くなっていたようで難を逃れました。

豊臣秀次/wikipediaより引用

秀次に連座して処刑された継室は、菊亭家出身「一の台」という女性です。

若政所本人の詳細はあまり伝わっていないので、比較的おとなしい感じの女性だったのかも知れません。

三女の天球院には、強烈なエピソードが伝えられています。

彼女は山崎家盛に嫁いだものの、何らかの理由で夫婦仲が悪く、子供もいませんでした。

そして関ヶ原の戦いで家盛が三成に圧迫されてやむなく西軍につくと、妻の天球院にこう告げます。

「人質として大坂城に入ってくれ」

状況的にはやむないことでも、日頃から仲の悪い夫にそんなことを言われれば腹が立つものでしょう。

しかも家盛は、自分の側室やその間に生まれた子供、そして義兄である池田輝政の正室・督姫(家康の娘)を逃していたそうで……。

日頃冷たくしている正室の天球院にだけ「人質になれ」とはあんまりな話です。

だからでしょう。激怒した天球院は、兄・輝政の城に行ってしまったのだとか。

彼女には化け物退治をしたという逸話もあり、心身ともに強い感じの女性だったようですね。

徳川四天王で有名な本多忠勝が後年話したところによると、

「自分たちの若い頃は人手が足りず、女も戦場に駆り出されたものだ。

男は血の匂いをかいだだけで具合を悪くするような情けない奴もいたが、女は毎月のことで血に慣れている者が多いのか、肝が座っていた」

なんて話もあり、戦国時代の女性が強いのは池田家に限ったことではないのでしょう。

だからこそ、実質的な女城主や女性武将の話が多く伝えられているはずです。

こうして見ると恒興個人にとどまらず、池田家全体に視野を広げて捉えたほうが面白いかもしれませんね。

実際、息子の池田輝政も生き残って活躍し、以降の池田家はさまざまに形を変え、現代まで存続していくことになります。

よろしければ以下の関連記事からご覧ください。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


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【参考】
国史大辞典
武部健一『道路の日本史 - 古代駅路から高速道路へ (中公新書)』(→amazon
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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