寛永十一年(1634年)11月7日は、日本三大仇討ちの一つ【鍵屋の辻の決闘】があった日です。
字面からして何やらカッコイイ感じがしますが、実は事の始まりからして「ゑ?」と言いたくなるような顛末だったりもします。
この一件については、当時の世情を掴んでおくことが重要になってきますので、本題に入る前にさらっと見てまいりましょう。
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藩主のカレシにフラれ……ブッコロ!
まず、ときの将軍は三代・徳川家光です。
将軍になって10年ほど経ち、若いころの放蕩もやめて立派に職務を遂行。
周りは徳川家康・徳川秀忠から引き継いだ老練な家臣たちががっちり固め、幕府を盤石なものにするべく、外様大名への目も厳しかった頃です。
平和になったとはいえ、まだまだ戦国の気風は残っていました。
鍵屋の辻の決闘が、【島原の乱】が起きる三年前の話であることを考えると、なんとな~く伝わるでしょうか。
※以下は「島原の乱」関連記事となります
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というわけで、ものすごく乱暴にまとめると「武士の気性の荒さが多く残っていた時代」という感じになります。
これを踏まえて、鍵屋の辻の決闘がどんなものだったのか見ていきますと……。
岡山藩主・池田忠雄が寵愛した小姓
武士の気性が戦国時代のままということは、習慣もまた戦国のものに則っていたということになります。
そうした習慣の一つに、小姓とお殿様との関係がありました。
詳細は割愛しますが、要するに織田信長と森蘭丸みたいな感じの男色・衆道が当たり前だったということです。
そして、ときの岡山藩主・池田忠雄(ただかつ)もまた、渡辺源太夫という小姓を寵愛していました。
それだけなら別に問題ないのですが、ここで岡山藩士の一人だった河合又五郎という男が、源太夫に横恋慕してしまったものですから話がこじれてきます。
主君のお気に入りである源太夫が、反逆の危険を冒してまで又五郎になびくわけはありませんよね。
いや、純愛もあったかもしれませんが。
当然の成り行きで源太夫は又五郎をフリました。
しかし、物の言い方がマズかったのか。
又五郎は「可愛さ余って憎さ百倍」と言わんばかりに、源太夫をブッコロしてしまったのです。
江戸へ逃げ旗本に匿ってもらうも、アッサリ発見
戦国時代なら、これでごまかしようもあったかもしれません。
しかし、ときは江戸時代。
外様大名の統治能力が疑われれば、あっという間に改易になってしまうような頃です。
又五郎は、自分の命やら藩主の運命やら、いろいろと予測してさぞかし肝が冷えたことでしょう。
その恐怖に耐えかね、又五郎は脱藩して江戸へ向かいます。
参勤交代で藩主も来るというのに、なぜ江戸を選んだのかサッパリわかりません。
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旗本の安藤正珍(まさよし)に匿って貰うためだったようですが、それにしたって助けてくれるかどうかアヤシイ相手のところへよく行きますよね。
そして主君の池田忠雄には、すぐにバレました。
激怒した忠雄は、幕府へ又五郎の引き渡しを要求します。
しかし、正珍にしても「一度かくまった相手を簡単に引き渡せるか!」(※イメージです)といって聞きません。
態度は立派ですが、横恋慕の末逆ギレして人を殺した人ですよ、そいつ。
話を持ってこられた幕閣のほうも困ったでしょうねぇ。
この時代だと「知恵伊豆」こと松平信綱や土井利勝がいましたから、多少は耳に入っていたかもしれません。
酒井忠勝あたりは人の心の機微に敏感な感じですので、双方に同情していたりして?
いずれにせよ彼ら堅物メンバーが額を集めて、寵愛スキャンダルを解決しようとしていたの?なんて考えると笑いがこみあげ……もとい、幕閣の苦労がしのばれますよね。
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