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【鍵屋の辻の決闘】
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藩主・忠雄は天然痘で死亡 遺言は「又五郎を討て」
何はともあれ、幕府の創成期を支えた彼らからすれば
「痴情のもつれなんぞで、こっちに迷惑かけないでくれよ(´・ω・`)」
と思ったであろうことは想像に難くありません。
現代で言えば、子会社の社長&秘書と本社のヒラ社員の三角関係で揉めたような感じでしょう。
そんなこんなですぐには解決せず、二年がたちました。
ここで大事件が起きます。
当時まだ30歳だった忠雄が、天然痘にかかり、呆気なく亡くなってしまったのです。
彼は今際の際に「又五郎を討て」と言い残します。
そりゃあ若くして死ぬだけでも腹立たしいのに、晩年に横恋慕されたせいで時間を無駄にしたなんて、死んでも死にきれないですよね。
この頃になると、幕府もいい加減この一件にケリを付ける方法を見出しました。
武士のならいである「喧嘩両成敗」になるよう、又五郎の江戸追放&正珍と協力した旗本たちの謹慎を決めたのです。
場合によっては、ここで池田家が引き下がることもできたでしょう。
しかし、そうは問屋が卸しませんでした。
忠雄の遺言を聞きつけたのか。
源太夫の兄・数馬が敵討ちのために脱藩したのです。
この人が池田家でどんな立場だったのか、ハッキリしません。
しかし、剣の腕前に不安があるからと、姉婿の剣術師範・荒木又右衛門に助太刀を頼んでいますので、結構、冷静な人だったのではないでしょうか。
どんな場面でも頭の回る人が復讐に乗り出すとガチで怖いですよね。
剣術の腕がない者同士の決闘→数時間かかる
そして数馬と又右衛門は、敵の又五郎が奈良に潜伏していることを突き止めます。
よくここまで逃げたものです。
又五郎も危険を察してさらに逃亡しようとしましたが、道中の「鍵屋の辻」で決闘となりました。
又五郎側にも親族から剣術指南役や槍の名人などがいて、数でいえば有利でした。
おそらく「命を狙われてるから助けてくれ」と伝えていたのでしょう。
しかし、細かい経緯はドコまで話したんですかね?
身内とはいえ、痴情のもつれが原因で命をかけさせられたら嫌になりそうです。
それはさておき、いよいよ寛永十一年(1634年)11月7日早朝、待ち伏せていた数馬たちが又五郎一行に襲いかかります。
上記の通り、数では又五郎側が勝っておりましたが、主戦力がすぐに討ち取られたため、又五郎の他は逃げてしまいました。
予め数馬がとどめを刺すことになっていたので、ここから
数馬vs又五郎
という一騎打ちが始まります。
しかし、数馬も又五郎も揃って剣の腕が未熟だったため、五時間も斬り合って、やっと又右衛門が又五郎にとどめをさしたのだとか。
数馬のお供の人がもう一人生き残っていたのですが、その間、何していたのでしょう。
とっくに日も昇ってたでしょうし、お腹が空いたでしょうね。まぁ、「周りには見せられないよ!」状態の死体がゴロゴロしてたでしょうから、食欲もなかったかもしれませんが。
元の池田家に引き取られた直後に不審死!?
かくして本懐を遂げた数馬たちは世間からは賞賛されました。
そして、鍵屋の辻周辺を領地としていた藤堂家に四年間預けられ、その後、池田家が領地替えされた先である鳥取藩に引き取られていきました。
藤堂家が数馬側に情報を提供していたともいわれていますが、定かではありません。
しかし、実はこれにて一件落着とも言いがたいところがあります。
数馬たち三人は寛永十五年(1638年)に鳥取に行ったのですが、その約半月後に助太刀してくれた師範・又右衛門の死が公表されているのです。
寛永二十年(1643年)死去説もありますが、又右衛門は慶長四年(1599年)生まれなので、自然死にしてはちょっと早い。
病気か事故ならそうと記録があるでしょうし……なんともスッキリしない幕引きです。
たぶん何年もかかって本懐を遂げたからこそ三大敵討ちの一つになっているのでしょう。
◆日本三大敵討ち
①「曾我兄弟の仇討ち」
→親の仇討ち
曾我兄弟の仇討ちとは?工藤祐経が討たれて源範頼にも累及んだ事件当日を振り返る
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②「元禄赤穂事件」
→主君の敵討ち
赤穂事件=赤穂浪士の討ち入りはテロ事件?史実はどのように進んだか
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③「鍵屋の辻の決闘」
→弟の仇討ち(ただしきっかけは痴情のもつれ)
他の二つと比べると歴史的意義があまりないような気もしますが、男色のもつれを甘く見てはいかんぞ! という指摘もあるかもしれません。
バイオレンスな中世・近世のことですから、男の感情のもつれはスグさま暴力沙汰に繋がり、かなり危険だったりします。
どれだけヤバかったのか? 男色・衆道の歴史については、以下の記事もご参考にどうぞ。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
別冊歴史読本『御家断絶-改易大名の末路』(→amazon)
鍵屋の辻の決闘/Wikipedia