歴史上には「こいつ、全然イケてないw」なんて調子で笑われてしまう人物もおります。
実際にそうだった場合もあれば、講談や物語による誇張表現で不当に貶められる人も……。
本サイトでも松平忠直や松平忠輝、高橋お伝など、実質、風評被害に遭ったと思われる人々を何人か見て参りましたが、今回はとある藩主に注目です。
正徳四年(1714年)10月29日に亡くなった、岡山藩の二代藩主・池田綱政(つなまさ)です。
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織田や徳川など戦国オールスターの子孫
池田綱政は血筋が結構凄い。
ご先祖様を遡ると、
・池田輝政
・榊原康政
・本多忠勝
・織田信長
・徳川家康
といった大物武将が出てくる戦国オールスターみたいな人。
まぁ、当時の親藩・譜代クラスの殿様なら誰もが、いずれか有名武将などの血を引いてますね。
綱政の生きた時代は既に太平の世だったため、血筋らしい武功を挙げることはありませんが、功績の面ではそれをうかがわせるものがあります。
池田家を継いだのは寛文十二年(1672年)。
この時代の大名によくあることで、しばらくは隠居したはずの父親が実権を握っていました。
父・池田光政も名君として名高い人でしたので、綱政としては逆らう理由もなく、また大いに学ぶこともあったでしょう。
そのためか天和二年(1682年)に光政が亡くなるまで、目立った衝突はなかったようです。
そこからは自ら藩政に辣腕を振るいます。
特に力を入れたのは、新田開発のための灌漑(かんがい・水路や堤防を作って安定した水を供給すること)でした。
当時はどこの大名も冷害その他で米の税収が減り、それでも家格に見合った暮らしをせねばならない。
ゆえにビンボーになる、そんな時期です。
藩政を安定させるためには、いかにして米を確実かつ効率よく実らせるか?というのがポイント。
岡山藩も例外ではなく、洪水などの天災で税収が減ってしまっていました。
幸い、綱政のこうした取り組みが功を奏し、やがて財政再建を果たします。
三名園「後楽園」を造営
綱政は、寺社や庭園の造営にも熱心に取り組みました。
新しく作るのはもちろん、ひいじーちゃんの信仰していた岩屋観音にもたくさん寄進をしています。
日本三名園の一つ「岡山の後楽園」も彼が作らせたものです。
地元で客をもてなすときに使われることが多かったようですが、綱政は「何かあったときには城の女子供をここへ避難させるように」とも言いつけていたそうで、いくつもの役割を持っておりました。
余談ですけども、戦時中には芝生の一部が畑に使われていたこともあったそうで。
”いざというとき”に領民の役に立つことができて、綱政も本望だったのではないでしょうか。
残念ながら、建物は空襲で一度全部燃えてしまったのですけども。文化の破壊ダメ絶対。
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