池田綱政

池田綱政/wikipediaより引用

江戸時代

子供を70人作ってバカ殿扱いされた池田綱政~後楽園も作った岡山藩主二代目の生涯

歴史上には「こいつ、全然イケてないw」なんて調子で笑われてしまう人物もおります。

実際にそうだった場合もあれば、講談や物語による誇張表現で不当に貶められる人も……。

本サイトでも松平忠直松平忠輝高橋お伝など、実質、風評被害に遭ったと思われる人々を何人か見て参りましたが、今回はとある藩主に注目です。

正徳四年(1714年)10月29日に亡くなった、岡山藩の二代藩主・池田綱政(つなまさ)です。

池田綱政/wikipediaより引用

 


織田や徳川など戦国オールスターの子孫

池田綱政は血筋が結構凄い。

ご先祖様を遡ると、

・池田輝政
・榊原康政
・本多忠勝
・織田信長
・徳川家康

といった大物武将が出てくる戦国オールスターみたいな人。

まぁ、当時の親藩・譜代クラスの殿様なら誰もが、いずれか有名武将などの血を引いてますね。

綱政の生きた時代は既に太平の世だったため、血筋らしい武功を挙げることはありませんが、功績の面ではそれをうかがわせるものがあります。

池田家を継いだのは寛文十二年(1672年)。

この時代の大名によくあることで、しばらくは隠居したはずの父親が実権を握っていました。

父・池田光政も名君として名高い人でしたので、綱政としては逆らう理由もなく、また大いに学ぶこともあったでしょう。

池田光政/wikipediaより引用

そのためか天和二年(1682年)に光政が亡くなるまで、目立った衝突はなかったようです。

そこからは自ら藩政に辣腕を振るいます。

特に力を入れたのは、新田開発のための灌漑(かんがい・水路や堤防を作って安定した水を供給すること)でした。

当時はどこの大名も冷害その他で米の税収が減り、それでも家格に見合った暮らしをせねばならない。

ゆえにビンボーになる、そんな時期です。

藩政を安定させるためには、いかにして米を確実かつ効率よく実らせるか?というのがポイント。

岡山藩も例外ではなく、洪水などの天災で税収が減ってしまっていました。

幸い、綱政のこうした取り組みが功を奏し、やがて財政再建を果たします。

 


三名園「後楽園」を造営

綱政は、寺社や庭園の造営にも熱心に取り組みました。

新しく作るのはもちろん、ひいじーちゃんの信仰していた岩屋観音にもたくさん寄進をしています。

日本三名園の一つ「岡山の後楽園」も彼が作らせたものです。

後楽園

地元で客をもてなすときに使われることが多かったようですが、綱政は「何かあったときには城の女子供をここへ避難させるように」とも言いつけていたそうで、いくつもの役割を持っておりました。

余談ですけども、戦時中には芝生の一部が畑に使われていたこともあったそうで。

”いざというとき”に領民の役に立つことができて、綱政も本望だったのではないでしょうか。

残念ながら、建物は空襲で一度全部燃えてしまったのですけども。文化の破壊ダメ絶対。

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