明治十二年(1879年)1月31日、高橋お伝の死刑が執行されました。
当時の死刑は斬首刑。
首を切るというとギロチンが連想されるかもしれませんが、当時の日本には存在しておらず、日本刀での打ち首でした。
江戸時代からずっと同じで、この翌年、新たな刑法が定められて斬首刑がなくなるため、時代の変わり目に犠牲となった女性と言えるでしょう。
というのも、確かにお伝は殺人という重罪を犯しはしましたが、そこに至るまでの経緯を見ると、かなり情状酌量の余地があると感じざるを得ないのです。
いったい何が起きていたのか。その経緯を振り返ってみましょう。
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幼い頃から厄介者扱いされ嫁ぎ先では…
お伝はもともと恵まれた家の生まれではありません。
母親が某藩の家老に手をつけられた上に捨てられたとされ、お伝を身ごもったまま結婚したため嫁ぎ先でもうまくいかず、早くに亡くなってしまいます。
そのためお伝は、年頃の娘になる頃には家でも厄介者扱いされていました。
そして親戚の家に入り、そこからお嫁に行ったのですが、ここからさらに不運が重なります。
旦那さんの高橋浪之助が当時不治の病だった“らい病(ハンセン病)”にかかってしまったのです。
この病気に限らず、医学が未発達だった時代のこと。
あらゆる伝染病は人に忌み嫌われましたから、浪之助もお伝も辛い目にあったことでしょう。
それでもお伝は夫を見捨てず、亡くなるまで献身的に看病をしたそうです。
旦那が働けなくなったのですから仕事もしていたでしょうし、それでいて周囲の協力が得られないような状態では相当キツかったでしょうね。
博打打ちのロクデナシに人生を翻弄される
浪之助はほどなくして世を去り、未亡人となったお伝はその後、小川市太郎という人物と恋仲になります。
しかし市太郎はギャンブル好きのろくでなしで、生活はどんどん苦しくなってしまいました。
そこで古物商を営んでいた知人の後藤吉蔵に「お金を貸してもらえませんか」と相談しに行ったのです。
普通、借金をするときはまず親兄弟に頼むものですが、お伝には誰もアテがなかったので知人にすがらざるを得ません。
このアテがお伝の人生そのものを狂わせてしまいます。
吉蔵はお伝に向かって「貸してもいいけど、一晩付き合ってくれたらな」という破廉恥な条件を突きつけたのです。
江戸時代も現代も、クズ男のやることは変わりませんね。
そして一夜明けた後、お伝は当然「約束を守ったのだから、お金を貸してくれますよね」と念を押したところ、市太郎と同じクズだった吉蔵は「そんなこと言ったっけなあ」と、おトボケ顔。
それまでの信頼と女としてのプライドを踏みにじられたお伝はついにブチ切れ、側にあった剃刀で吉蔵を殺してしまったのです。
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