戦国最強の武将は誰か?
歴史好きなら誰もが一度は考えたことのあるこのテーマ。
1対1での決闘など現実味はなく絶対に答えの出ない話である一方、「戦国時代No.1の戦上手は誰か?」という命題ならば、信玄か謙信、あるいは家久とか宗茂など幾人かに絞られてくるでしょうか。
その中で東京大学史料編纂所の本郷和人教授が候補に挙げているのが毛利元就です。
以下のように、寡兵で大軍を撃ち破る勝利を三度も飾っているからと、著書『戦国武将の選択』(産経新聞出版公式サイト)の中で語られておりまして。
◆永正14年(1517年)有田中井手の戦い
◆天文9年(1540年)吉田郡山城の戦い
◆天文24年(1555年)厳島の戦い
今回はそのうち、永正14年10月22日(1517年11月5日)に決着がついた「有田中井手の戦い」に注目。

毛利元就/wikipediaより引用
実に、5倍規模の戦力を持つ相手に、しかも初陣にして撃破した元就の戦術を振り返ってみましょう。
当主がたった2歳だった毛利氏
毛利元就は本来家督を継ぐはずのない立場でした。
兄の毛利興元が家督を継いだとき、幼い元就は父の隠居所に連れて行かれており、ゆくゆくは分家=本家の家臣として仕えるはずだったのです。

毛利興元/wikipediaより引用
ところが永正十三年(1516年)8月、興元が若くして亡くなり、その息子・幸松丸が家督を継ぐことになりました。
幸松丸は元服していないどころか、当時たったの2歳。
当然この年齢で家を指図できるはずもなく、叔父である元就が後見を務めることになりますが、元就もまだ二十歳であり、戦の経験がほぼ無いため、家中の動揺は明らかでした。
さらに毛利氏の主家だった大内氏は主力を京都に連れて行ってしまっており、毛利氏の領内は戦力的に空白地帯にも等しい状態だったのです。
「いま、毛利を攻めれば、城を奪うのもたやすい!」
そこで食指を伸ばしてきたのが、安芸武田氏の武田元繁です。
元繁も元は大内方だったのですが、尼子氏から調略され、厳島神社の領地や大内方の城へ攻め込むようになっていました。
そんな彼にしてみれば、当時の毛利氏など鴨が葱を背負って来るどころか、既に鴨そばが仕上がっているも同然。
あとは美味しくいただくだけ……と、ホクホクしていたことでしょう。
元就も前線に出て熊谷元直と対決
こうして永正十四年(1517年)2月、武田元繁は周辺の国人に服属を呼びかけました。
率先して応じたのが以下の3名。
・三入高松城主:熊谷元直
・八木城主:香川行景
・己斐城主:己斐宗瑞
合計で5,000以上の兵が集まったとされています。
そして同年10月3日、元繁は手始めに大内方で毛利氏・吉川氏の下の立場だった小田信忠の有田城を包囲しました。
当時、毛利元就がいた猿掛城からは20km程度しか離れておらず、もしも有田城が落とされてしまえば、毛利氏もかなり厳しい立場になります。
また、10月21日には武田軍が元就の領地である多治比に放火するなど、挑発してきました。
元就はこれに対し150の兵を出撃させて追い払ったといいます。
この件は毛利氏の本拠だった吉田郡山城にも知らされ、元就の異母弟・相合元綱や重臣たちが700ほどで合流しました。
さらには吉川氏からも300ほどが駆けつけ、どうにか1,500ほどの戦力を集めることに成功しています。
こうして10月22日、両軍は有田城近辺の中出という場所で対峙することになりました。

武田軍は熊谷元直率いるのが1,500ほどで、本軍ではありません。
これに対して毛利・吉川軍は全力でかき集めた1,500ですから、数で不利な上に後がない状況です。
もしも武田方に背後へ回り込まれて挟み撃ちになったら全滅――そんな危険な状況に元就がいち早く気が付き、一方で元直が全く気付かなかったことがこの戦の勝敗を分けました。
元就は短期決戦を決め、精鋭300を武田軍へ突撃させ、自らも前線で兵を叱咤しています。
元直も自ら最前線で槍を振るいましたが、それが運の尽き。
事態を見極めた毛利方の弓兵が元直に矢を浴びせ、一気に首を取るところまでやってのけたのです。
これによって一気に熊谷勢は崩れ、毛利方の勝利となりました。
そして「西の桶狭間」と呼ばれ
この知らせを受けた武田方の大将・武田元繁は激怒します。そりゃそうだ。
有田城を包囲する兵を残し、自ら4,000程を率いて毛利・吉川連合軍を討つため又打川(またうちがわ)までやってきました。
さすがにこの兵力差となると毛利・吉川連合軍は苦戦。
元就の叱咤激励によって何とか踏みとどまっています。
先に焦れたのは武田元繁でした。自ら先頭に立って又打川を渡ろうとしたのです。
「同じような状況で熊谷元直がやられたばかりなのに、なぜ前に出てきた!」
そうツッコミたくなるかもしれませんが、おそらく怒りと焦りで我を忘れていたのでしょう。
元繁の家臣にそれを止めてくれる人がいなかった、あるいは彼自身が耳を貸さなかったのかもしれませんが、ともかく一瞬の判断ミスが命取りになるのが戦場。
再び訪れた好機を、毛利方は見逃しませんでした。
毛利軍は一斉に弓を放ちます。
すると、元繁は矢を受けて落馬し、討死。
総大将が討死して、当然、武田軍は総崩れとなり、撤退していきました。
ちなみに、この後、弔い合戦に来た武田方の武将たちもやられており、「頭に血が上ったままでは戦には勝てない」というのがよくわかる典型例となってしまいます。

武田元繁戦死の地石碑/wikipediaより引用
この戦は圧倒的に小勢だった毛利元就が多勢の武田軍を打ち破ったことから、「西の桶狭間」とも呼ばれるようになりました。
桶狭間の戦いの実態については、近年「奇襲かそうでないか」という研究が取り沙汰されており、
「悪天候もあって織田軍は今川本陣の位置を把握しておらず、義元を討ち取れたのは偶然だった」
とする見方もあります。
これに対し、有田中井手の戦いでは敵の大将格が自ら出てきてくれているので、少々異なるかもしれません。
桶狭間当日は雹が降ったという説もあるほど悪天候だったのに対し、有田中井手では武田方が渡河を試みていることからして、おそらく天候は大きく左右しなかったのでしょう。
となると、旗指物などの位置から大将格の位置をあらかじめ掴むこともできたのではないでしょうか。
なにはともあれ、この勝利によって、仮の総大将に過ぎなかった毛利元就が周囲の諸勢力から注目を集めることになります
在京中の大内義興のもとにもその評判が届き、元就は感状を受けたとか。

大内義興/wikipediaより引用
その後の熊谷氏と毛利氏
この戦の結果は、後の毛利氏と熊谷氏との関係にも影響します。
有田中井手の戦いで毛利方に討たれた元直の子・熊谷信直は武田氏と決別し、天文二年(1532年)から毛利氏につきました。

熊谷元直戦死の地に建つ墓/wikipediaより引用
そしてその後、信直の娘が吉川元春(元就の次男)に嫁ぐなどして毛利氏との関係を強め、宍戸氏と共に毛利氏の有力な武将となったのです。
この件は「元就の次男が不美人として有名な娘を娶った」として知られていますね。
当時は不思議がられたそうですが、元春には
・家の軍略のため
・悪い評判が立った娘を自らもらうことで信直の信頼を取り付ける
といった狙いがあってのことでしょう。
二人の間には多くの子供が生まれ、結婚後は仲睦まじく過ごしていたようなので、きっかけはどうあれ丸く収まって何よりでした。
元就いわく「元春の嫁は男みたいな手紙を書く」らしいので、武家の妻としてふさわしい女性だったのでしょうしね。
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【参考】
河合正治『毛利元就のすべて 新装版』(→amazon)
『「毛利一族」のすべて 別冊歴史読本-一族シリーズ』(→amazon)
森本繁『<毛利元就と戦国時代>知将・元就 版図拡大の軌跡を追う (歴史群像デジタルアーカイブス)』(→amazon)





