歴史好きなら誰もが一度は考えたことのあるこのテーマ。
1対1での決闘など現実味はなく絶対に答えの出ない話である一方、「戦国時代No.1の戦上手は誰か?」という命題ならば、信玄か謙信、あるいは家久とか宗茂など幾人かに絞られてくるでしょうか。
その中で東京大学史料編纂所の本郷和人教授が候補に挙げているのが毛利元就です。
以下のように、寡兵で大軍を撃ち破る勝利を三度も飾っているからと、著書『戦国武将の選択』(→amazon)の中で語られておりまして。
今回は、そのうち有田中井手の戦いに注目。
実に、総戦力5倍もの相手を、しかも初陣にして撃破した元就の戦術を振り返ってみましょう。
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当主がたった2歳だった毛利氏
毛利元就は本来家督を継ぐはずのない立場でした。
兄の毛利興元が家督を継いだとき、幼い元就は父の隠居所に連れて行かれており、ゆくゆくは分家=本家の家臣として仕えるはずだったのです。
ところが永正十三年(1516年)8月、興元が若くして亡くなり、その息子・幸松丸が家督を継ぐことになりました。
幸松丸は元服していないどころか、当時たったの2歳。
当然この年齢で家を指図できるはずもなく、叔父である元就が後見を務めることになりますが、元就もまだ二十歳であり、戦の経験がほぼ無いため、家中の動揺は明らかでした。
さらに毛利氏の主家だった大内氏は主力を京都に連れて行ってしまっており、毛利氏の領内は戦力的に空白地帯にも等しい状態だったのです。
「いま、毛利を攻めれば、城を奪うのもたやすい!」
そこで食指を伸ばしてきたのが、安芸武田氏の武田元繁です。
元繁も元は大内方だったのですが、尼子氏から調略され、厳島神社の領地や大内方の城へ攻め込むようになっていました。
そんな彼にしてみれば、当時の毛利氏など鴨が葱を背負って来るどころか、既に鴨そばが仕上がっているも同然。
あとは美味しくいただくだけ……と、ホクホクしていたことでしょう。
元就も前線に出て熊谷元直と対決
こうして永正十四年(1517年)2月、武田元繁は周辺の国人に服属を呼びかけました。
率先して応じたのが以下の3名。
・三入高松城主:熊谷元直
・八木城主:香川行景
・己斐城主:己斐宗瑞
合計で5,000以上の兵が集まったとされています。
そして同年10月3日、元繁は手始めに大内方で毛利氏・吉川氏の下の立場だった小田信忠の有田城を包囲しました。
当時、毛利元就がいた猿掛城からは20km程度しか離れておらず、もしも有田城が落とされてしまえば、毛利氏もかなり厳しい立場になります。
また、10月21日には武田軍が元就の領地である多治比に放火するなど、挑発してきました。
元就はこれに対し150の兵を出撃させて追い払ったといいます。
この件は毛利氏の本拠だった吉田郡山城にも知らされ、元就の異母弟・相合元綱や重臣たちが700ほどで合流しました。
さらには吉川氏からも300ほどが駆けつけ、どうにか1,500ほどの戦力を集めることに成功しています。
こうして10月22日、両軍は有田城近辺の中出という場所で対峙することになりました。
武田軍は熊谷元直率いるのが1,500ほどで、本軍ではありません。
これに対して毛利・吉川軍は全力でかき集めた1,500ですから、数で不利な上に後がない状況です。
もしも武田方に背後へ回り込まれて挟み撃ちになったら全滅――そんな危険な状況に元就がいち早く気が付き、一方で元直が全く気付かなかったことがこの戦の勝敗を分けました。
元就は短期決戦を決め、精鋭300を武田軍へ突撃させ、自らも前線で兵を叱咤しています。
元直も自ら最前線で槍を振るいましたが、それが運の尽き。
事態を見極めた毛利方の弓兵が元直に矢を浴びせ、一気に首を取るところまでやってのけたのです。
これによって一気に熊谷勢は崩れ、毛利方の勝利となりました。
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