それが戦国時代の戦国時代たる所以ですけども、中には、いくらなんでも「真っ黒にも程がある」というケースもあります。
天文十九年(1550年)9月27日に毛利元就が吉川興経(おきつね)父子を暗殺させたのも、その一例ではないでしょうか。
前当主の吉川興経さん 尼子と大内行ったり来たり
名字からピンと来た方もいらっしゃるでしょう。
吉川家とは、元就の次男・吉川元春の養子入り先です。
以下の記事にあります通り吉川元春は自分の意思で家臣から正室を迎えているため、この縁組は婿養子によるものではありません。
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しかし、小早川家とセットで「毛利の両川(吉川と小早川の川)」と呼ばれたように、元春以降の吉川家は毛利の重鎮としての結束力を示しています。
有力者の息子とはいえ、完全によそ者であるはずの元春がなぜそこまで家中を掌握できたのか?
疑問に思いませんか。
その答えがこの暗殺事件の背景にあったのです。
尼子と大内行ったり来たり
もちろん、吉川家自体に問題がなかったわけではありません。
当主の吉川興経は、有り体に言えば凡庸な人物。
中国地方では、尼子家と大内家が激しくバトルを繰り広げており、その戦乱の中を生き抜いていくには頼りない人物だと家臣に思われておりました。
尼子か大内か。
せめて一貫してどちらかの味方であればマシだったのに、しょっちゅうフラフラして両家から睨まれていたのです。
「だめだこいつ、早くなんとかしないと……」
というのが、家臣だけでなく親類一門でも共通の認識だったようです。
まぁ、興経は興経なりに家を守ろうと努力していたのでしょうけどね。
わざと自分ん家を滅ぼしたがる大名はいないはずですし。
親子揃って強引に隠居 しかし、それだけでは終わらず…
そこで吉川家の家臣たちは決断します。
「毛利さんに相談だ!っていうか血縁もあるし、養子もらってアイツ(興経)には引っ込んでもらおう!」
血縁とは以下の通りです。
興経の母が元就の妹。
元就の正室・妙玖が興経の叔母。
とまぁ、ややこしくて鼻血出そうですが、血縁的にはかなり深い関係の両家。
興経には千法師という男の子がいましたが、それを無視して強引な養子縁組を進めます。
更には親子揃って隠居扱いにされ、ほとんど監禁状態に……。
しかし、それでも家臣たちの腹の虫が収まらなかったのか、実際にそうだったのかは不明ですが、やがて元就のところへこんな知らせが届きました。
「興経の野郎、あんなコトとか、こんなコトとか、やらかしてて酷いんです! 元就さんヤッちまってください!」(超訳)
当然、興経は「違うんです、悪いことなんて何もしてません!」と弁解の手紙を出しますが、既に殺る気MAXな元就は聞く耳を持ちません。
かくして元春の舅・熊谷信直らが興経の隠居屋敷を襲撃、父子ともども始末されました。
一説には、息子の千法師は一度逃げたものの、山中で見つかり、殺されたともいわれています。どっちにしろひでえ。
結局、偉大なる祖父の領地は大半を失ってしまう…
こうして吉川家の血筋は絶え、実質的には元春以降毛利家の血が続いていくことになりました。
吉川家の家臣たちが元就に頼んで主君を殺させたようなものですから、そりゃトラブルになるわけがないですよね。
状況が状況ですから元就のやったことも極悪とは言い切れませんけども、何とも後味の悪い話です。
しかも、そこまでして面子を整えていながら、長男には先立たれた上ノーコメントな孫が跡を継いでしまったのですから、そりゃジーチャンとしては「ウチは天下を望むんじゃありません」って言い残すわけですよね。
もし輝元に織田家や秀吉とやりあうだけの器量があり、元就も期待していたとしたら「よーしジーチャン張り切って謀略教えちゃうぞー」なんて展開になったのかもしれません。結局輝元は関が原の戦いで西軍のお頭にされてしまって領地の大部分を没収され、ジーチャンの苦労を水の泡にしてしまっていますし。
元就も草葉の影で歯軋りしていたと思いますが、毛利家興隆の過程で敗者になった興経らもまた死に甲斐がなくなってしまってまさに誰得ですね。
昔どこかで「三国志は膨大な敗者の物語である」という形容を見かけた覚えがあるのですけども、元就はじめ毛利家の経緯もまた似たような印象を覚えます。
家が残っただけマシといえばマシですけど、でもねえ……。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
吉川興経/wikipedia