連日の金メダル報道に日本中が湧いておりますが、一方で長々とくすぶり続けている東京オリンピックの賄賂・汚職報道。
五輪とは、健全なるスポーツの祭典ではなかったのか?
なぜお金ばかりが絡んでくるのか?
というと、最初からそんな純朴なイベントでもありません。
時にはカネのため、時には政治のため、様々な狙いと共にスポーツでお祭り騒ぎしてきたイベントがオリンピックとも言えるでしょう。
近代史を振り返ると、スポーツは“軍事”目的にも利用されるのですから辛いものがある。
例えば2019年大河ドラマ『いだてん』で永井道明が熱心に勧めていたスウェーデン体操。
あの体操が誕生した背景には、ナポレオン戦争がありました。
フランスやロシアを相手に苦戦したスウェーデンでは、国民と兵士の体力増強をはかるため、あの体操を生み出したのです。
ストックホルム大会に出場した金栗四三にせよ、三島弥彦にせよ、当時のアスリートはこんな非難を浴びせられたもので。
「かけっこという遊びのために、金をかけて行くのか?」
それに対する有効な反論がありました。
「ただの遊びではありません。国民を強くして、富国強兵にかなうものです!」
戦争が迫り、開催が危ぶまれた「箱根駅伝」も、
【軍事的な訓練である】
と言い張ることで、ようやく実現に漕ぎ着けたほど。
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とにかくもう、近代におけるスポーツと国家、そして政治は切っても切り離せない関係にあります。
そこで本記事で、現在まで続く、オリンピック負の歴史を振り返ってみましょう。
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スポーツ狂時代
朝ドラ『わろてんか』でも、モデルにされた横山エンタツと花菱アチャコ。
彼らの人気演目といえば『早慶戦』でした。
ドラマでは野球を相撲に変えてしまいましたが、これは問題のある改変でした。
相撲には1千年以上の長い伝統がある。
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一方、野球は、明治以降に人気が広まったもの。
流行に敏感な若者が広めたというのが当時の認識であり、明治時代には野球有害論すらあったほどです。
相撲と同列に並べるには、両者の背景があまりに違いすぎました。
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「スポーツ」という言葉が広まり、それと共に「スポーツ狂時代」とされるようになった1920年代、いくつかの環境変化も関係しております。
顕著なのがラジオ中継の盛況でしょう。
これにはスポーツだけでなく落語ブームも影響しました。
本来だったら球場や演芸場まで足を運ばねばならなかったエンターテイメントが、自宅にいながら楽しめるようになった。
結果、国民の間に急速に広がったのです。
エンタツとアチャコの『早慶戦』も、スポーツとラジオという要素が一致したからこそ国民の間でブームになったんですね。
となると当然【利用価値】が高まる。
国家統合の象徴であるという政治利用――その最たる例が、1936年のベルリンオリンピックでした。
ナチ・オリンピック
1932年のロサンゼルス五輪。
1936年のベルリン五輪。
両大会において、メダル獲得数を飛躍的に伸ばした国があります。
日本、イタリア、ドイツです。
このころ五輪開催に名乗りを上げていた国を見てみますと…….。
1940年 日本・東京
1944年 イタリア・ローマ
この並びを見て、ピンと来ない方はいないでしょう。
第二次世界大戦における枢軸国です。
戦争と五輪は無関係であると主張したいところで、ここまで露骨な結びつきを見てしまうと、さすがに辛いものがあります。
1936年ベルリン五輪は、ナチス・ドイツを率いるヒトラーを礼賛するかのようでした。
この大会には、日本の民衆も熱い目線を送っていました。
「前畑がんばれ!」という声が伝説にまでなった前畑秀子の躍進です。
女子平泳ぎで1932年ロス五輪の銀メダル、1936年ベルリン五輪の金メダルという快挙。
この大会で日本人が歓声を送った対象は、日本人選手だけではありません。ヒトラーの雄姿も、強い印象を残しました。
あんなふうに団結したい!
晴れの舞台を開催したい!
そんな思いが、次回開催の東京五輪にこめられていたのでした。
しかし、軍部は冷ややかな目を向けていました。
運動会ごときでみっともないという苦々しい思いを抱いていたのです。
苦い思いを感じていたのは、彼らだけではありません。
日本の植民地であった朝鮮半島の人々も、悔しさを噛みしめていました。
孫基禎(ソン・ギジョン)と南昇竜(ナム・スンニョン)——。
金と銅、二つのメダルを獲得した陸上選手は、複雑な思いを抱いていました。彼らのメダルは、日本のものとされたからです。
『東亜日報』に掲載された写真では、日の丸が塗りつぶされていました。
いつになったら、祖国の選手が、日の丸ではない旗を掲げて走り抜けられるのだろう?
朝鮮半島の人々は、その思いを抱いていたのです。
こうした朝鮮半島出身者の記録において、国籍がJapanからKoreaとされるまでは、戦後に至るまで様々な苦労が続くのでした。
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利用される金メダリスト
こうした熱狂と、苦い思いの狭間で翻弄された人物がいます。
陸軍士官でありながら、馬術代表選手でもあった西竹一です。
ロサンゼルス五輪から、西は本人の天真爛漫な性格とは裏腹に、周囲から政治的な期待を背負わされておりました。
金メダルを獲得したロサンゼルス五輪で、西はこう言います。
「我々は勝った」
人馬一体と海外のメディアは解釈しました。
しかし、日本では違います。
「大日本帝国として勝利した」と解釈され、広められたのです。
西はベルリン五輪において、メダルを逃してしまいます。
体調不良を抱えており、参加国も増えた激戦の中です。西自身としては納得のいく結果でした。
それなのに、こう邪推されてしまうのです。
「友好国のドイツに気遣って、手抜きをしたのだろう」
記録映画である『民族の祭典』には、障害にハマりながらも苦闘する西の姿が映っていました。
軍部は、それを日本人の醜態だとして、カットを要求します。
しかし、西自身は人馬の苦闘を見せてこそだと反発していたのです。
西は東京五輪を目指していましたが、この大会は幻のものと化してしまいます。
メダリストとしての価値を失った西は、軍人として中国大陸、そして最期の地となる硫黄島まで、戦車部隊を率いて戦うこととなります。
太平洋戦争中も、彼は利用され続けました。
メダリストとしての名声を利用される一方で、その利用価値が薄れたあとは戦線に投入されました。
死後ですら、西は利用され続けました。
宮城を向いて自決した、その名声を惜しんだアメリカ軍が投降を呼びかけた――といった伝説が吹聴されたのです。
軍人として美化し、惜しまれた日本人がいたのだと思われたい。そんなふうに利用されてしまった形跡が、彼の像から見られます。
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これもスポーツの持つ残酷な一面でしょう。
勝利をおさめたからこそ、利用価値が出てきてしまったのです。
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